荘子を読み返していて、座禅の源流のような記述を見つけた。(大宗師篇 第七章)
顔回が師匠の孔子に「坐忘」を身につけたと報告する。
「肢体を堕ち、聡明をしりぞけ、形を離れ知を去りて、大通に同ず。此れを坐忘といふ。」
坐忘とは、身体や手足、耳目の存在を忘れ去り、形ある肉体を離れ、
心の知を捨て去ることによって、大道と一体となることであると。
これを聞いた孔子は、大道と一体となれば物事への執着がなくなると感心。
どことなく鎌倉時代の禅僧、道元が記した「正法眼蔵」に出てくる、
「身心脱落」や「朕兆未萌」といったキーワードに近いものを感じる。
「仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。」(現成公案)
「而今の山水は古仏の現成なり。ともに法位に住して、究尽の功徳を成ぜり。空劫已前の消息なるがゆえに、而今の活計なり。朕兆未萌の自己なるがゆえに、現成の透脱なり。」(山水経)
自己を捨て、無心・無欲になるためには、
- 自分や他人の心身を所有するという考えを捨てよ(身心脱落)
- 主観・客観に仕分けする以前(朕兆未萌)の自己を捉えよ
そうすれば過去・現在・未来が凝縮した今(而今)を感じることができる。
道元の言い回しは難しく分かりづらいが、荘子の方は意味が取りやすい。
そこでふと気が付くのは、これらの奥には「老いを前向きに受け入れる」
というテーマが潜んでいるのではないかと。
そういえば世阿弥「風姿花伝」の年来稽古条々で語られる、
いかにして「まことの花」を手にするか?にも「老い」が語られている。
以前はできたことが、年齢を重ねると、できなくなっていく。
昔の自分と今の自分を比べて嘆くのではなく、
もっと本質的なことを見つめようとすることもまた禅の心なのだろうか。
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