踊り念仏と坐禅は本質的には同じかも/一遍上人語録

阿波踊りで徳島市と踊り手の対立がニュースになっていてふと思う。

そういえばなぜか日本史の転換点に踊り狂う集団が現れる

  • モンゴルが九州に攻め寄せた頃、踊り念仏の一遍が現れ、その後鎌倉幕府は崩壊へ向かう
  • 江戸時代の末期、まさに大政奉還の年に「ええじゃないか」と庶民が踊り狂う
  • 近年ではバブル絶頂の頃、ディスコで踊り狂って、失われた20年へ突入していく

そう振り返っていたら「一遍上人語録」を読みたくなった。

数年前に初めて読んだ時は、
IT革命後の世界で情報をいかに取捨選択していくか?
という観点から「捨聖」と称された一遍にヒントを求めた。

あらためて読んでみると、禅のような印象を受けた。

禅に特徴的な「無」の思想を簡単にまとめると、
自我や執着など心の中にある固定観念を極限まで捨てることで、
自己の本質を捉える(仏を感じる)ことができる、といったもの。

一遍は仏の前では人間は身ひとつであり、所有物などありはせず、
一切を手放せば、世のあらゆるものが念仏であると説く。

「本来無一物なれば、諸事において実有我物のおもひをなすべからず。一切を捨離べし。」

「仏もなく我もなく、まして此内に兎角の同里もなし。善悪の境界、皆浄土なり。外に求むべからず、厭うべからず。よろづ生としいけるもの、山河草木、ふく風たつ波の音までも、念仏ならずといふことなし。」

すべてを捨てるところまでは同じで、
その場に座するか(禅)、念仏を唱えて踊るか(一遍)の違い。

こう捉えてしまえば本質的には同じということかな。

そういえば禅の影響を受けて花開いたとされる東山文化は、
時宗の信者が名乗る「阿弥」号を称した同朋衆が担っていた。

そもそも宗派の分類なんてものは後付けで、
同じ時代に現れた考え方は似通っていて当然とも言えるか。

オマケで一遍は和歌を数多く残しており、
やはり踊りに歌はかかせないのかなと思ってみたり。

花はいろ 月はひかりと ながむれば 
こころはものを 思はざりけり

心をば こころのあだと こころえて 
こころのなきを こころとはせよ

いまははや 見えず見もせず 色はいろ 
いろなるいろぞ 色はいろなる

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