私たちの認識は幻想にすぎない/道元「正法眼蔵」山水経

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とくに脈絡もなく久しぶりに道元の「正法眼蔵」を読み始めた。

10年来、挫折と再読を繰り返し、解読できた部分をちぎってメモを残す。
宝探しに出かけては、その断片を見つけて帰る、そんな古典だ。

言葉が「枯山水」に似ているから興味をひかれるというだけの理由で、
きまって「山水経」の章を読み直すところから入るのだが、
こんなことが書いてあったのか、と今回気が付いた部分。

「おほよそ山水をみること、種類にしたがひて不同あり。いはゆる水をみるに、瓔珞とみるものあり。しかあれども、瓔珞を水とみるにはあらず。われらがなにとみるかたちを、かれが水とすらん。かれが瓔珞はわれ水とみる。水を妙華とみるあり。しかあれど、はなを水ともちゐるにあらず。鬼は水をもて猛火とみる、膿血とみる。龍魚は宮殿とみる、楼台とみる。」

わたしたち人間が「水」と見るものは、

  • 天人…瓔珞(珠をつらねた装飾)や花
  • 餓鬼…猛火や膿、血
  • 龍魚…宮殿や楼台

というように、立場が変わると見方が異なる。

「諸類の水たとひおほしといへども、本水なきがごとし、諸類の水なきがごとし。」

さまざまな立場にとって、それぞれの水があると言えるが、
それを取り払うと、本来の水は一体どこにあるのか?

こうした考え方は様々な分野で出会う。
たとえばアインシュタインの「相対性理論」やユクスキュルの「環世界」。
私の勝手な理解の仕方だが、

  • 相対性理論…この世界に誰から見ても変わらない「絶対的」なものはなく、見る人の立場によって「相対的」に変わることを証明。
  • 環世界…私たちが「客観的」だと信じている、この目に映る世界は、世界全体から「主観的」にある一部分を型抜きしたものにすぎないと指摘。

より簡単な例では「」を何色に見るかは国によって違い、

  • 七色…日本、韓国、オランダ
  • 六色…アメリカ、イギリス
  • 五色…フランス、ドイツ、中国、メキシコ

言語の違いが思考や色覚の違いにも影響を及ぼしているという。

ゆえに世界を読み解く方法の出発点として、
私たちの物事に対する認識は、独りよがりの幻想にすぎない、
ということを常に意識しなければならない。

多くの見方を学んでも、一つの見方でしかなく、本質は分からないまま。
だからと言って、自分の見たいと思う世界だけを見つめる人生は貧しい。
分からなくても学び続けることで、豊かな人生を送ることができるはず。
それが学ぶことの意義なのだろうなと思う。

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