雪裏の梅花只一枝なり/道元「正法眼蔵」

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前回、紹介した菅原道真の漢詩「月夜見梅花から、ふと連環。

道元の「正法眼蔵」には「梅華」と題した章がある。

中国に禅を学びに行った際に耳にした、

瞿曇、眼晴を打失する時、雪裏の梅花只一枝なり。

(釈迦が悟りを開いた時、雪の中に梅の花が一枝咲いた。)

という話にいたく感銘を受けたようで、

老梅樹、はなはだ無端なり。・・・老梅樹の忽開華のとき、華開世界起なり。華開世界起の時節、すなはち春到なり。

(老梅樹が花を咲かせるとき、世界中が花となり、その時期に到来するのが春。老梅樹はまことに想像を超えた存在なのだ。)

何で読んだのか忘れてしまったけど、「正法眼蔵」という書物は、

漢文で書かれた禅の教えを、なんとかして和文で伝えたい!

と道元が当時の日本語表現の限界に挑戦したものなんだとか。

それなら「梅」を「桜」に置き換えて語る、という選択肢もあったはず。

ただここで道元が梅の素晴らしさを説いたことが、

後の水墨画に梅が描かれることと、何かつながっているような気もする。

そういえば川端康成がノーベル文学賞を受賞したさいの演説

美しい日本の私」で紹介されて有名になった道元の和歌、

春は花 夏ほととぎす 秋は月
冬雪さえて 冷しかりけり

の「春の花」はやっぱり梅のことなんだろうな。

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