いまこそ「市中の山居」

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示唆に富んだ人生訓がちりばめられた、パスカルの「パンセ」。

今ほどこの言葉が身にしみる時はない。

「人間の不幸というものは、みなただ一つのこと、すなわち、部屋の中に静かに休んでいられないことから起こるのだということである。」(パンセ断章139)

どうして心静かに引きこもっていることができないのか?

「事を知り、世を知れれば、願はず、わしらず、ただしづかなるを望みとし、憂へなきを楽しみとす。」(方丈記

大地震、大火、飢饉と幾多の天災を目の当たりにした鴨長明は、
山中に建てた方丈(約四畳半)の庵で、ひとり静かに暮らすことを願った。

「つれづれをわぶる人は、いかなる心ならん。まぎるる方なく、ただひとりあるのみこそよけれ。世に従へば、心、外の塵に奪はれて惑ひやすく、人に交われば、言葉、よその聞きにしたがひて、さながら、心にあらず。・・・いまだ、まことの道を知らずとも、縁を離れて身を閑かにし、事にあづからずして心を安くせんこそ、しばらく楽しぶとも言ひつべけれ。」(徒然草75段)

兼好法師はつれづれ(孤独や退屈)をもてあます人の気が知れないと批判する。
世俗に交われば自分を見失ってしまうから、ひとり心静かに生きることこそ、
いつ終わるとも分からない短い人生を楽しむことではないかと説いている。

今とくに参考にすべきは、16世紀の初めに茶の湯を楽しんでいた、
京都や堺の商人の美意識である「市中の山居」かもしれない。

都会の喧騒の中に、数寄屋造りの茶室を組み、隠遁の閑居を見出す。
それが世俗を捨て山里に入った隠者よりも優れている
のだと。

もちろん現代の家に茶室など設けられる余裕などない。
しかし利休の茶室が二畳だったことを考えれば、
風呂場でのひとときに茶の湯の心を見出すこともできる。
自宅での安息こそが最上のものである、と認識すべきなのだ。

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