孔子と荘子。未来に対する姿勢の違い。

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将来の目標に突き進むことを美徳とする世間の考え方がなんか嫌い。
そんな話を先日書いたのだけど、ふと気が付いたことがある。
これは孔子と荘子のどちらを支持するのか?という違いかもしれない。

論語」の一節で、孔子が楚の国を訪れた時の話。
狂人のふりをした隠者がこんな歌を吟じて通り過ぎる。

「往く者は諫むべからず、来たる者はなお追うべし。」(微子篇)

過去をいさめても無駄だから、未来を追うべきと説いた論語。

そして「荘子」には「論語」をなぞらえて、
隠者の言葉だけを差し替えた一節がある。

「来世は待つべからず、往世は追うべからざるなり。」(人間世篇)

過去はもちろん、未来も追い求めるに値しないと説いた荘子。

さらにこれに続く末尾では、

「人みな有用の用を知りて、無用の用を知るなきなり。」

世間ではそれが役に立つかどうかばかりで価値判断をされるが、
無用なものこそが転じて有用となることを知らない、と嘆く。

荘子の理想とする生き方は、先の読めない未来に対し無心で遊ぶこと。

「不測に立ちて無有に遊ぶ」(応帝王篇)

未来予測のありがちな前提は、今日真実であることが明日も真実であること。
つまり儒教が重視する目標や計画は、私たちの思い込みに過ぎない。
過去も未来も追わず「無有に遊ぶ」ことが思わぬ変化への柔軟性を生むのだ。

つまり私は荘子が好きなんだね。

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