日本の出版事業の夜明け「五山文化」

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松岡正剛さんの千夜千冊の文庫化
がはじまり、

一度はウェブで読んでいるはずだけど、さっそく手に入れた。

松岡さんの書いたものを読むと、読書への関心が高まるところが好き。

ふと気になる一節から広がった一例は次のようなもの。

「とくに五山文化が見えてきていない。しかし、五山文化こそ一言でいえば出版開版の文化の花園なのである。五山の出版文化があったからこそ日本人は本を読むようになった。それゆえ、ここが見えてこない日本史は「メディエーションを忘れた社会史」になりかねない。」

現存する世界最古の印刷物は日本の「
百万塔陀羅尼」(770年)とされる。

だから早くから寺院を中心に木版印刷が盛んだったのかと思いきや、

鎌倉・室町時代の五山文化で本格化となると、だいぶ間が空いている。

そこで五山文化について書かれた本を探したが、

の一冊くらいしか見当たらなかった。

この本を元に五山文化と出版について簡単にまとめてみた。

秘伝だった漢文の訓読

奈良時代には中国経由で印刷技術も渡来していたが、

当時の書物は漢籍が主と、読者が限られたことで出版は普及しなかった。

また今では漢文の授業でおなじみの訓読の方法は、

奈良の寺院にはじまり、9世紀頃には貴族にも広まっていたが、

秘伝の技として受け継がれていた技術だったらしい。

「伝承の訓点本を基礎とする学問が花ひらき、とくに菅原家、大江家、藤原式家、南家、北家日野流、清原家、中原家などの博士家では、家々に独特の秘説である家説が形成され、訓点本の転写は、秘儀のごとくおごそかにおこなわれて、家の子孫や特定の弟子に独占的に伝えられた。」

訓読は漢学の権威として官職を手にするための手段となり、

閉鎖的な社会環境では出版も読書も広がりをみせなかったようだ。

天下禅林の建長寺

時代が大きく変わるのは、

禅僧、蘭渓道隆が南宋から招いて、建長寺が創建され(1253年)、

足利義満の時代(1386年)に京都と鎌倉の五山が整えられたあたり。

創建からしばらくの間、建長寺や円覚寺の住職には来日僧が着任し、

「本場の禅を本場の僧から教えてもらえる!」と日本の僧が殺到。

創建当時からの標語ではないらしいが、

まさに「天下禅林(人材を広く天下に求め育成する禅寺)」の存在。

熱気に包まれた鎌倉では、来日層の語録が出版されるようになり、

また同時に禅の入門書を求める鎌倉武士も増えたことで、

いよいよ日本の出版の夜明けがやってくる。

こうした臨済宗による出版物が「五山版」と名付けられている。

五山版の最盛期に「夢中問答集」

臨済宗の中でもとくに出版に積極的だったのが、

京都五山・天龍寺を本拠地とした夢窓疎石の一派。

夢窓疎石の弟子、春屋妙葩が出版活動の推進者となり、

その代表作が夢窓疎石と足利直義との対談集「
夢中問答集」の刊行。

この時期に日本で出版が盛んになったのは中国大陸の情勢が関係しており、

元王朝が弱体化し、中国から日本へ逃れてきた技術者の存在があった。

「刻工」と呼ばれる原稿を板に彫刻する職人だ。

出版事業を収入源として捉えていた寺院と職人が結びつき、

このころから出版事業の商業化がはじまっていくのだ。

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