グリーンエネルギーの旗手とされてきた原子力発電が、
押し寄せる津波により一夜にして善から悪へと転落した。
人間の知性の限界を思い知らされる事象に遭遇し、
様々な古典に世界を読み解く方法を求める中で、
最も響いた考え方が
ユクスキュルの「環世界“Umwelt”」だった。
今一度、頭の整理を兼ねて、環世界についてまとめてみる。
機能環
ユクスキュルの研究は、様々な動物の「機能環」を観察し、
生物が主体的に見ている世界観である「環世界」を探求することだった。
機能環の具体例としては次のようなものがある。
- 捕食環…自分が捕食する対象に対する、察知する感覚と捕食行動をなす機能環
- 索敵環…敵の発する特徴を捉える感覚とそれに基づく移動行動のなす機能環
- 生殖環…異性の発する特徴を捉える感覚と異性に対する行為のなす機能環
- 媒体環…対象となる動物などから水や空気などの媒体を通して伝わるものに対する機能環
すべての生物はこの機能環によって自分自身の「環世界」を作り、
この外側には逃れることはできないと、ユクスキュルは説いている。
客観は存在しない
つまりそれぞれの生物が「主体」として、ある「客体」を、
自分にとって意味あるものとして「知覚世界」で認識しないかぎり、
その主体の「環世界」には存在していないのと同じということになる。
だから
私たちが「客観的」だと信じている、この目に映る世界は、
世界全体から「主観的」にある一部分を型抜きしたものにすぎない。
ユクスキュルの著書を翻訳した
日高敏隆はよりくだけた表現で、
「
イリュージョン」によってしか世界を認知、構築しえないと説いた。
わかりやすい具体例をあげるなら、
環境保護活動で「地球のための~」と掲げていたとしても、
どうあがいても「人間が心地よい地球環境の保護」と枠内の話。
耳触りのよい言葉に惑わされてはいけない。
環世界の構築に意思はない?
以前は気付かなかったのだがユクスキュルの主張には、
生物の「知覚世界」はそれぞれが意思を持って構築したのではなく、
あらかじめ自然設計に組み込まれたもの、とする部分がある。
「目的にかなった行動自体がやはり全体としての自然設計に組み込まれている。」
「本能とは、個体を超えた自然の設計というものを否定するためにもちだされる窮余の産物にすぎない。自然の設計が否定されるのは、設計が物質でも力でもないので、設計とはなにかということについて正しい概念が形成できないためである。」
私たちは技術を持って知覚世界を広げてきたように思い込んでいるが、
いわば大仏の手のひらの上で踊らさせているだけ、ということだろうか。
コメント