人生を一貫性のある物語として語ることを批判した、
難波優輝「物語化批判の哲学」を読んだ。
私も長々としたプロフィールを公開しているので、
これも著者が批判する物語化の一種かもしれない。
ただ実際に書き出してみると分かるのだけど、
個々の出来事は本来バラバラで、一貫性のある物語にはならない。
時折出逢う、心を揺るがす出来事があってはじめて、
過去が現在・未来に繋がっていたような錯覚を抱くことができる。
- 過去のすべてが肯定される瞬間(11/07/12)
だからとくに直近の出来事はまとめようがないし、
そもそもすべての行動に一貫性ある人間なんて存在しない。
それでも世間で人生の物語化が重視されているのはなぜか。
著者は次の3つをあげている。
- 私たちが他人を理解したいと願い、他人に理解されたいと願うから。
- 私たちが他人と同じ気持ちになりたいと願い、他人にも、自分と同じ気持ちになってほしいと願うから。
- 自分が誰であるかはっきりさせたいと私たちが願うから。
なぜ物語化による理解の何が問題かというと、
- 物語を通した理解の願いはときに誤解と欺瞞に陥る。自分に馴染みのある物語を使って他人を理解しようとするとき、抑圧をもたらす。
- 物語を通じて誰かと情動をリンクさせたいという願いは、自らの情動を誰かの思惑通りに上書きされることにつながる。
- 物語を用いた自己像の探求は、ときに凝り固まった自己像を作り出し、アイデンティティの硬直を招く。
そして物語から人生に自由を取り戻すための思考法として、
著者が「遊び」を提示していた。
個人的には予想通りの展開で、
やっぱり「遊び」こそが人生のキーワードなんだなぁと。
- 職業「遊び人」宣言から10年(24/11/06)
物語化の罠。
株式投資で企業を分析する際の注意点にもつながる話かもしれないね。




















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