カタカナ語や何らかの用語を省略したアルファベットの羅列など、
いわゆる専門用語を不必要に使ってしまうと、
その分野に新たに興味を寄せる人に対して壁を作るようなもの。
2006年にイグノーベル賞を受賞した論文にこんなものがある。
- Consequences of Erudite Vernacular Utilized Irrespective of Necessity: Problems with using long words needlessly(必要性に関係なく用いられる学問的専門用語がもたらす影響について─不必要に長い単語の使用することの問題)
ありふれた言葉で表現できるのに、専門用語を使ってしまうと、
知性が乏しく、信憑性が低いとみなされることを示した論文だ。
こうしたことが明らかでも、私たちは専門用語に頼りがち。
そこには一体、どういう心理が働いているのだろうか?
そんな疑問に対する答えのひとつとして、
ダニエル・カーネマン「NOISE」の中に、ふと気になる一節があった。
多数の解釈ができる事象に対して、一通りの解釈しか見えなくなる、
そんな錯覚を専門家がなぜ起こすのか?という文脈で、
「専門職として判断を下す仕事をしていると、「他の人にも自分に見えているとおりに世界が見えている」という信念が日々強められることになる。まず、同じ専門職の同僚とは共通の言葉で話す。判断を下す際のルールや基準も共有している。さらに、誰かがルールに違反してやらかした判断の馬鹿さ加減を話題にするなどして、自分の正しさや優秀さを再確認することが多い。そのうえ、たまさか同僚との不一致に気づくことがあっても、自分は正しくて向こうがまちがっているのだと安易に結論づける。」
自らの世界観が正しいと信じたいとか、自分に自信がない、
といった理由から、専門用語に頼ろうとしてしまうのだろうか?
今日、私たちが社会の中で一定の役割を果たしたければ、
何か一つの領域で専門家として成熟することを求められている。
その焦りから専門用語を多用してしまっているのだとしたら逆効果。
何者かになろうと努力するうちに「無知の知」を見失い、
高慢な振る舞いをしていたら、何者にもなることができない。
ひるがえって、誰にでも分かる言葉で語っている人こそを、
真の専門家として尊敬すべき、ということになるのだろうね。
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