「つれづれなるままに、日暮らし、硯に向かひて、心に移りゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。」
言わずと知れた、吉田兼好「徒然草」の序段。
「つれづれ」は「することがなく寂しい・退屈」と解釈されることが多く、
有名な序段しか知らないと、なんだか否定的な生き方だな、と思いがち。
そうではない。第75段へ飛んでみよう。
「つれづれをわぶる人は、いかなる心ならん。まぎるる方なく、ただひとりあるのみこそよけれ。世に従へば、心、外の塵に奪はれて惑ひやすく、人に交われば、言葉、よその聞きにしたがひて、さながら、心にあらず。・・・いまだ、まことの道を知らずとも、縁を離れて身を閑かにし、事にあづからずして心を安くせんこそ、しばらく楽しぶとも言ひつべけれ。」
寂しさや退屈(つれづれ)をもてあます人の気が知れない、と首をかしげ、
世俗に交われば自分を見失ってしまうから、独り心静かに生きることこそ、
いつ終わるとも知れない短い人生を「しばらく楽しぶ」ってことだよ、と説く。
おそらく兼好が「つれづれ」という言葉に込めたかった想いは、
人生とは目的があってそれに向かうことだ、と考えるのは間違い!
多くの人は目的(目標、夢)がなければ生きていけないと嘆き、
目的を持つことを美徳のように考えているが、なんと愚かなことか。
現在を未来の手段に置き換えて、短い人生を無駄にしてはいけない。
視点を定めずふらふらしながらも、目の前のことを精一杯楽しみ、
風になびく竹のようにしなやかに、芯はしっかり生きていこう。
こんなメッセージが込められているように思えたのだった。
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