不確実性を求めて旅へ

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地元のレストランの料理が劇的に変わった。
「シェフが変わったの?」と尋ねてしまうほど。
前月に徳之島を訪問し、現地の食材に触れたことで、
新たな料理が生み出されたようだ。
眠っていたシェフの能力を旅が引き出したということか。

そんな体験から思い出した本が、東浩紀弱いつながり
2014年に読んだ本の中で一番印象的だった一冊。

限りない自由をもたらすように見えたネット社会の到来。
でも、氾濫しすぎた情報の情報の取捨選択をITに丸投げして、
個々の好みに合わせる方向へ進んだことで暗雲が立ち込める。
ネットが「見たいものが見れる」と期待されていた時代から、
「見たいものしか見ていない」時代へ変わってしまったのだ。

そんな時代に偶然の幸運を掴むために「旅」に出る。

「自分探しではなく、新たな検索ワードを探すための旅。ネットを離れリアルに戻る旅ではなく、より深くネットに潜るためにリアルを変える旅。」

著者の説いた旅の効用は、10年経った今でも通用する。
これをきっかけに旅に関する本を読み、印象的な文章をふたつほど。

「旅とは、未知の音、噂、慣習と相対することだ。当初は不安になり心が混乱したとしても何とかなるものだ。旅に出れば、ーつの問題にも解決法が何種類かあることを知って心が落ち着つくようになる。・・・変化がなければ心は消耗する。だが新たな見方をするようになれば、新たな展望が開ける。旅をすれば感覚が研ぎ澄まされ、世間や家庭内の状況に対して注意深くなる。今まで無関心だったことにも、不意に何かを感じるようになるのだ。今まで見えていなかったことが不意に見えてくるのである。」(ペール・アンデション「旅の効用 人はなぜ移動するのか」

旅に出て自らを不確実性にさらすことで、
日常の思わぬ出来事に心が動じなくなったり、
新しい物の見方ができるようになったり、という効用がある。

「書物やコンピュータのなかでの放浪はどちらかといえば制限された、感性のせまい領域で生じるものだ。人生をかたちづくるのは、公式の出来事の隙間で起こる予期できない事件の数々だし、人生に価値を与えるのは計算を越えたものごとではないのか。田園、および都市の徒歩移動は二世紀間にわたって、予期できることや計算できぬものを探りあてる第一の方法であり続けた。」(レベッカ・ソルニット「ウォークス 歩くことの精神史」)

旅に出かけなくても、ただ歩くだけでもいい。
しかし今は暑すぎて、昼間は外を歩けない。。。

ふと気になることがひとつ。
今月上旬の日本株暴落で思うように投資できなかったのは、
お昼に散歩しながら考える時間がなかったからかも。
その日の東京の最高気温は36度だった。。。

「わたしが集中できるのは歩いているときだけだ。立ち止まると考えは止まる。わたしの精神は足をともなうときにだけ働くようだ。」(ルソー)

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