羽生善治さんがサインに記す「玲瓏(れいろう)」。
この言葉についての本人の解説を引用すると、
「意味としては、富士山の頂上から眺めるような風光明媚な景色、またはそのような心境ということです。意味の近い四字熟語には『明鏡止水』もあり、そのような気持ちになれればとの思いもあります。まっさらな透明な状態にある時が、何よりも明確に物事を認識でき、迷いのない選択ができるからです。」(羽生善治「迷いながら、強くなる」)
知識や経験を積んでいくと、玲瓏でいることが難しい。
玲瓏、すなわち自然体でいられたときに、ごく稀に訪れる閃き。
それを「まぐれ」や「たまたま」の一回限りで終わらせず、
いかに自分の中に取り込み、再び呼び寄せるか?
道元や宮本武蔵が難解な言い回しで説いていることも、
おそらく本質的には同じ境地を目指したものだろう。
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無欲にして万物の妙を見る/道元「身心脱落」(12/11/17)
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宮本武蔵「五輪書」の奥義を要約・編集(16/05/03)
そしてこの感覚は、日本の神様を迎える方法に似ている。
正月に「歳神(年神)」を迎えるために、家の外には門松やしめ飾り、
家の中には恵方棚をつくって、席を「空けておく」。
また、神様がときおり訪れるための仮の宿である神社は、
「空っぽ」にすることで、神と出会える可能性を演出した空間だ。
このように日本では「神」と「空(から)」との関係は深い。
まっさらな空っぽの状態は、文字通りの「神」を迎える方法だけでなく、
「アイデア」や「幸運」の神様を迎える方法も同じというのが興味深い。
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