今月のNHK「100分 de 名著」は宮本武蔵の「五輪書」か。
中国古典の諸子百家(論語や老子など)のように、
読み手の立場や心境によって形を変える魅力を持つ、
日本の古典の中では希有な一冊といえる。
「渡を越すといふは、たとえば、海を渡るに瀬戸という所もあり、または四十里五十里いも長き海を越すをも渡といふなり。人間の世を渡るにも、一代のうちには、渡を越すといういう所多かるべし。」(火の巻)
人生にたびたび訪れる「瀬戸」つまり瀬戸際をいかに「渡る」か?
これをテーマに五輪書の奥義を高速編集してみよう。
武蔵は「拍子」すなわち「タイミング」の大切さを説き(地の巻)、
- 物事が「さかゆる拍子」と「おとろふる拍子」を見極め、
- 「あたる拍子」「間の拍子」「背く拍子」を踏まえて、
- 「知恵の拍子」から生まれる「空の拍子」を手にせよと。
加えて「場」見極めることの大切さを説く。
「場の位を見分くる所、場において日を負うと云ふ事有り・・・いずれも場の得を用いて、場の勝をうるといふ心専にして、よくよく吟味して鍛錬あるべきものなり。」(火の巻)
拍子と場をつかんだら、どこを打つかは相手と自分の「縁」しだい。
自らの必殺技を繰り出すわけでも、相手のスキをつくわけでもない。
相手との縁を感じとって、縁のあたりを打て、と説く。
「縁のあたりと云ふ事。我打出す時、敵打ちとめん、はりのけんとする時、我打一つにして、あたまをも打ち、足をもうつ。太刀の道一つをもって、いづれなりとも打つ所、是縁の打也。此打、能々打ちならひ、何時も出会ふ打也。細々打ちあひて分別あるべき事也。」 (水の巻)
武蔵の「打つ」とは「当たる」に近い感覚で、
- あたるはゆきあたるほどの心
- あたるはさわるほどの心
進んでいったら突きあたったという触るような感覚だ。
「縁」にあたるは「まぐれ」にあたる感覚に近いかもしれない。
やってくる偶然と迎えにいく偶然が、ふとした瞬間に出会うように。
そして以上のような武蔵の奥義に近づくための9ヶ条(地の巻)。
- よこしまになき事をおもふ所
- 道の鍛錬する所
- 諸芸にさはる所
- 諸職の道を知る事
- 物毎の損得をわきまゆる事
- 諸事目利を仕覚ゆる事
- 目に見えぬ所をさとつてしる事
- わづかなる事にも気を付くる事
- 役に立たぬ事をせざる事
なぜ五輪書が普遍的な魅力を持っているのか?
それは武蔵が「空」を意識していたからではないだろうか。
5巻からなる五輪書の最終巻「空の巻」の末尾は、
「正しく明らかに、大きなるところを思いとって、空を道とし、道を空と見るところなり。」
何かを極めるための「道」とは「空」のことであり、
まごころを貫いた先に一切の迷いなき「空」に到達できる。
般若心経の有名な一節「色即是空、空即是色」がある。
私たちが知覚する現象はすべて「空」であり、固定的な本質はないが、
「空」であるがゆえに縁で結ばれ、あらゆるものが生まれてくる。
武蔵の「空」はこれを踏まえたものだったのかもしれない。
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