文字や文章を声に出して読むことはほとんどない。
小学校の国語の授業か、カラオケが好きな人が歌う時ぐらいだろうか。
歌詞は忘れてしまったが、音楽は覚えているようなこともたびたびで、
私たちの脳内では、文字と音の繋がりが極めて薄くなっている。
しかしかつては言葉がもつ音楽性は重要だったことがうかがえる。
たとえば神様の名前に込められた同音連鎖の響き。
「たとえばオオヤマトトビモモソヒメ、ヒコホホデミノミコト、ホトタタライスズヒメ、タツツヒメ、ホノニニギノミコトといった神名には同じ音の連続があります。またタキツヒメとタギリヒメ、ククツヒコとククツヒメ、ウサツヒコとウサツヒメといった一対の神名にも同音連鎖がある。ぼくは、この同音連鎖の響きに何かの「言霊の力」をこめるやりかたがあらわれているように思うのです。」(松岡正剛「外は、良寛」)
そして後白河院が「梁塵秘抄」に編んだ中世の歌「今様」の数々。
遊びをせんとや生れけむ 戯れせんとや生まれけん
遊ぶ子供の声聞けば 我が身さへこそゆるがるれ
仏は常にいませども うつつならぬぞあはれなる
人の音せぬ暁に ほのかに夢に見えたまふ
梁塵秘抄という名をそのまま現代語に意訳するならば、
妙なる歌の響きで梁(はり)の上に積もる塵(ちり)さえも動く…。
それほどまでに心を揺さぶる歌だったにも関わらず、
今の私たちがその音楽的な感覚を再現することはできない。
マクルーハン「グーテンベルクの銀河系」によれば、
写本によって本が読み継がれていたときは音読による読書だったが、
機械的に印刷されるようになって、人々は本を黙読しはじめたという。
聴覚中心から視覚中心の世界への転換が起こり、
言葉から音や旋律が失われていった、ということになるだろうか。
でも記憶に残るキャッチコピーにはリズムが感じられるように、
なにかしらのネーミングの際には音の感覚を大事にした方がいいだろう。
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