「会う」より神聖な輝きを持つ「逢う」

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なんとなく気になった言葉。

会う」と「逢う」を微妙に使い分けている気がする。

会っていながら逢っていないうたが無数にある中で、行きすぎたうたに呼び返される時がある。そうではなく、初めて会ったのに逢えたと感じる時もある。」(竹西寛子

でも広辞苑や大辞林を引いても、特に違いは書かれていない。
「会う」ことに何か特別な想いが加わった時に「逢う」になる?

しょせん人生とは逢って別れることの繰り返しのように思われます。すべてめぐり逢うものは偶然ではなく、他人には無縁にすぎぬ一つの出逢いが、その人の一生を塗りかえていくことが多いのです。」(瀬戸内寂聴

思いつく和歌をあげてみると、
和泉式部の情感たっぷりの一首や、

あらざらむ この世のほかの 思ひ出に

今ひとたびの 逢ふこともがな

七夕の永遠の恋を詠った紀貫之の和歌がある。

一年に 一夜と思へど 七夕の

逢ひ見む秋の かぎりなきかな

漢字の成り立ちまで辿ってみたら、なんか納得。

  • 会…もとの字「會」は、鍋に蓋をして煮ている形
  • 逢…「夆」は神が下り憑りつく木を表す

だから「会う」は鍋パーティーをする感じで(会食)、自ら機会を作るもの。
一方の「逢う」は不思議な巡り合わせでふいに眼の前に現れるもの。

そして「逢う」は、めぐり逢うまでに要した時間や想いも内包する、
神聖な輝きを持った持続的な時の流れを示す言葉なのかもしれない。

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