自分を幸せにできない人に、他者の幸福を語ることはできない。/アラン「幸福論」

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幸せな人生を送る人は、人の痛みが分からないと揶揄されることがある。
単なる妬みというよりも、不幸や悲しみの上にしか美徳は存在しない、
という奇妙な先入観に由縁するように思える。

三大幸福論と称されるうちのアランが書いた「幸福論」では、
そのあたりの世間の考えに一石を投じる一節がある。

「幸福を人にあたえるためには、自分の心のうちに幸福をもっていなければならない。」(89)

「わたしの意見によれば、自分固有の内的な幸福は、美徳に反するものではなく、むしろ、力を意味するこの美徳という美しいことばが示しているように、幸福それ自体が美徳なのである。」(89)

「なるほどたしかに、わたしたちは他人の幸福のことを考えねばならない。だが、わたしたちが自分を愛してくれる人たちのためになしうる最善のことは、やはり自分が幸福になることであるということは、じゅうぶんに言われていない。」(90)

つまり自分自身が幸せでなければ、他者の幸せを語ることなどできないということ。

また「幸せボケ」や「平和ボケ」という言葉は、今では悪い意味で使われるが、
荘子は「徳のある人は愚か者に見える(聖人は愚芚なり)」と説いている。

「衆人は役役たるも、聖人は愚芚なり。万歳に参じて、一に純を成す。万物尽く然として、是を以て相蘊む。」(斉物論篇四)

大衆はコツコツ勤めるが、聖人はぼんやりしていて愚かに見える。
いつでも純粋な心で世の中と向きあい、すべてを温かく受け入れる。

社会課題の解決を訴える人が、本物かどうか見極めるコツかもしれない。

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