道元の弟子が師の教えを書きとめた「正法眼蔵随聞記」。
その中にこんな一節がある。
「今の世、出世間の人、多分は善事をなしては、かまへて人に識られんと思ひ、悪事をなしては人に知られじと思ふ。此れによって内外不相応の事、出で来たる。相構へて内外相応し、誤りを悔い、実徳を隠して、外相をかざらず、好事をば他人に譲り、悪事をば己に向ふる志気あるべきなり。」
今の世の中、善いことをすると、どうにかして人に知られようと思い、
悪いことをすると、人に知られまいと思う。本来は逆であるべきという話。
同じような記述は、古くは前漢の武帝時代の思想書「淮南子」に、
「陰徳あれば必ず陽報あり。」
今では「陰徳陽報」という四字熟語として用いられており、
- 陰徳…人に知られず善い行いをすること
- 陽報…はっきりと良い知らせがあること
西洋に目を向けても、ローマ皇帝マルクス・アウレリウスが「自省録」で、
「君が善事をなし、他人が君のおかげで善い思いをしたときに、なぜ君は馬鹿者どものごとく、そのほかにまだ第三のものを求め、善いことをしたという評判や、その報酬を受けたいなどと考えるのか。」
組織的な隠ぺいをはじめ、個々人の自己PRまで、今も昔も人は変わらない。
分かっちゃいるけど…の話だから、こうして古典にたびたび現れるのだろう。
善いことをしても見返りは求めない。そんな潔い生き方に必要な心がけは何か?
もう一度「正法眼蔵随聞記」に戻ると、最初の一文にそのヒントがある。
「はづべくんば明眼の人をはづべし。」
万人にいい顔をして、世間の評価まで気にする必要はない。
賢者(=明眼の人)と呼べる人に認められるよう努力するだけでいい。
賢者なんて大それた存在である必要はなく、身近な人で十分だろう。
万人と適当につながって、自分を演じる誠意のかけた人生よりも、
人数は少なくても、たしかな信頼関係を築けた人生に価値があるのだから。
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