千数百年の時を経て、ふたたび声で文章を綴る時代へ!

この記事は約3分で読めます。

5年前の元旦には紀貫之の話を書いた。
日本語で文章を綴ることができる感謝の想いを込めたものだ。

この頃に日本語の原型が整ってきたことで、
平安時代の文芸作品が文字として残り、今も読むことができる。

でもそれ以前は人の記憶にあるものを語り継ぐ手段しかなかった。
だから日本にはギリシアの哲学者や中国の諸子百家は現れず、
覚えやすいリズムの五七五七七の和歌が好まれたのだろう。

「語り継ぎ」から「文字を書く」ことへの変化は、
思考法にも影響が与えていたことが古典からも読み取れる。

平安時代末期の歌謡である「今様」を編した「梁塵秘抄」。
「今様」とは今で言う「ポップス」や「流行歌」にあたる。

遊びをせんとや生れけむ 
戯れせんとや生まれけん 
遊ぶ子供の声聞けば 
我が身さへこそゆるがるれ 

平清盛が大河ドラマになった時にメインテーマに使われていたが、
実際のところどのように詠われていたのかは分からない。

梁塵秘抄という名をそのまま現代語に意訳するならば、
妙なる歌の響きで梁(はり)の上に積もる塵(ちり)さえも動く…。

それほどまでに心を揺さぶる歌が当時の今様だったが、
梁塵秘抄が編まれてから約150年後の「徒然草」では、

梁塵秘抄の郢曲の言葉こそ、また、あはれなる事は多かめれ。昔の人は、ただいかに言ひ捨てたる言種も、皆、いみじく聞ゆるにや。」(14段)

梁塵秘抄の音楽ではなく言葉への感心が描かれており、
古典を愛する兼好法師にも今様の旋律は関心の対象外だったようだ。

文字を書き残す時代では、そこに織り込まれた「音」は失われていく

思えばここ20年の間に私たちの文章の綴り方も大きく変わった。
ペンで「書く」から、キーボードや液晶画面に「触れる」へと。

しかし早くも次の時代が間近に迫っている。
マイクに向かって「話す」だけで文章が作れてしまう!

すでに昨年、スマホの音声入力を使った本も出版された。

そういえば私の母もパソコンでGoogle検索するよりも、
iPadに話しかけた方が調べものが楽チンだと言っていた。
高齢化社会の波に乗って一気に広がっていくのかもしれない。

千数百年ぶりに「声」にスポットライトがあたり始めている

こうした変化が今後、私たちの思考にどのような影響を与えるのだろう。
声で様々な機器が動き出す世界は、古代の言霊信仰に近いものを生むだろうか?

敷島の 倭の国は 言霊の 
助くる国ぞ 真幸ありこそ

無文字社会が長かった日本では言葉の威力が極めて強く、
人が口から発する言葉に霊力が宿るという考え方だ。
※引用和歌は万葉集3254

音声認識技術が伸展するなかで気になることがひとつある。
過去に日本語が堪能な外国人から聞いた話だが、
相手の言葉が頭で描けなければ会話が成立しない言語だと。

「コウエンにいってくる。」

「公園」に行ったのか? それとも「講演会」なのか?
はたまた「講演」をしにいったのか?ということだ。

つまり日本語には漫画のような吹き出しが必要なのだ。

これがネックとなって英語圏に大幅に遅れることになるのなら、
日本経済には痛手になってしまうかもしれない。
支配的な言語のもとに経済的な利益が集まるものだから。

だから投資家の視点で考えれば、
日本語の音声認識技術がどこまで進んでいるか確認するためにも、
音声認識で文章を作ってみることが大切になってくるのだろう。

コメント