トマ・ピケティ「21世紀の資本」と翻訳者が同じだし (山形浩生訳)、
手軽に読めるページ数だったから手にとってみた哲学書。
著者はプリンストン大学名誉教授で専門は道徳哲学。
ポイントとなる言葉を引用しながらまとめると、
「私は平等主義が、どんな変種であれ、内在的な道徳的重要性を持つ理想だという想定を全面的に却下する。これは私が全体として、現在存在している不平等を肯定するとかそれに無関心だとか、あるいはそうした不平等を削減したり、緩和したりする努力に反対したがるとかいうことを意味するものでは断固としてない。」
「私は平等性そのものは何ら本質的な価値や、派生的でない道徳的価値を持たないと確信している。」
平等それ自体には何の価値もないとバッサリ。
もちもろん著者は経済的な平等を目指すことにも反対で、
「経済的平等性は納得できる理想ではない。」
ではなにが重要なのかといえば、
「経済的格差はそれ自体として道徳的に反発すべきものではない。道徳性の観点からすると、万人が同じだけ保有するというのは重要ではない。道徳的に重要なのは、万人が十分に保有することだ。」
個々人の満足度合いは違うから、格差があって当然ということか。
つまり「格差の解消」ではなく「貧困の救済」を重要視するのが著者の主張だ。
なぜ平等を目指すことに疑問を投げかけるのかといえば、
「経済的平等性を誇張するのが有害なのは、それが疎外をもたらすからだ。それは人を自分個人の現実から分離させてしまい、最も真正に自分のものではないような欲望やニーズに関心をあわせるように促してしまうのだ。」
経済的平等性の裏側には常に他人の比較がつきまとう。
それはすなわち自分自身から目をそらすことにつながる。
だから自分の頭で考えることをやめてしまう平等なんて無意味だ。
私の勝手な想像だが、著者は1929年生まれだから、
ファシズムの台頭や社会主義国家の失敗が頭にあるのでは?
そしてもちろん最近のトランプ旋風も…。
「大衆とは良い意味でも悪い意味でも、自分自身に特殊な価値を認めようとはせず、自分はすべての人と同じであると感じ、そのことに苦痛を覚えるどころか、他の人々と同一であると感ずることに喜びを見出しているすべての人のことである。」
---オルテガ・イ・ガセット「大衆の反逆」
なんの美学も道徳観も持たない大衆が、
善悪の境界を引いて突っ走ると、世の中ろくなことにならない。
そういう歴史を見てきたから、上記のような考え方になるのだろう。
また他者との比較が人生を暗くするという指摘は、
老子の「足を知る」にはじまり、繰り返し説かれてきたことだ。
私は中国古典の集大成である菜根譚の記述が好きだけど、
自由主義経済学の祖とされるアダム・スミスの言葉を紹介すると、
「健康で、負債がなく、良心にやましいところのない人に対して何をつけ加えることができようか。この境遇にある人に対しては、財産のそれ以上の増加はすべて余計なものだというべきだろう。もし彼が、それらの増加のために大いに気分が浮き立っているとすれば、それはつまらぬ軽はずみの結果であるに違いない。」
---アダム・スミス「道徳感情論」
競争に勝って富や地位を得ることが人の幸福ではないと説いている。
つまり図解をするとこういうことになるが、
グラフの傾きや頭打ちになるポイントは人それぞれなのだから、
安易に平等という言葉でひとくくりにしても何も解決しない。
平等や格差を語るよりも、個々人が美学や価値観を持つことが大事!
それが著者からのメッセージといえるだろうか。
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