歴史の授業で習う「井伊直弼」で思い浮かぶキーワードといえば、
日米修好通商条約、安政の大獄、桜田門外の変の3つだろう。
彦根城博物館ではあまり知られていない、
直弼の文化人としての一面が紹介されていて興味深かった。
後世の評価に翻弄された直弼の生涯を見つめ直す展示とのこと。
一期一会
私も「一期一会」の由来を調べたときに知ったのだが、
直弼は兄、直元が若くして亡くならなければ、
政治の表舞台には現れず、茶人として名を残したはずの人物。
- 一期一会の来歴/茶人・井伊直弼(12/08/09)
直弼が茶会の心構えをまとめた「茶湯一会集」の冒頭部分で、
「そもそも、茶湯の交会は、一期一会といひて、たとえば幾度おなじ主客交会するとも、今日の会にふたたびかへらざる事を思へば、実に我一世一度の会なり。さるにより、主人は万事に心を配り、いささかもそまつなきよう深切実意をつくし、客にもこの会にまた逢いがたき事をわきまえ、亭主の趣向、何ひとつおろかならぬを感心し、実意をもって交わるべき。これを一期一会という。必々主客ともなおざりには一服をも催すまじきはずの事、すなわち一会集の極意なり。」
この記述が現代まで使われ続ける「一期一会」の由来だ。
湖東焼
博物館の展示品で初めて知ったのが「湖東焼」。
直弼の一代前の彦根藩藩主、直亮は美術品収集家として名高く、
佐和山山麓の釜で焼かれた焼物に目をつけ、藩窯として召し上げる。
その跡を継いだ直弼は、自ら楽焼の技法を取得し、
茶道具を自作していたほど関心を持っていたため、窯の規模を拡大。
直弼が各地から優れた職人を招聘したことで、黄金期を迎えたという。
しかし桜田門外の変で直弼が死去、幕末の混乱の中で消えていく。
わずか数十年しか焼かれなかった幻の焼物が湖東焼なんだとか。
焼物に詳しくないので、正直すごさは分からなかったが、
当時の最高水準の品質で焼き上げられたものばかりとのこと。
おそらく藩内の産業振興の側面もあったのだろう。
直弼のまた新たな一面に触れることができた。


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