私たち人間は外からのショックを受けてはじめて、
好奇心が立ち上がり、考えを巡らすようになる生き物。
そんな捉え方もできるので、
- 好奇心はどのように生まれるのか?(22/12/13)
先月、松岡正剛さんが亡くなったことを受けて、
その著作を再読するなら、今がいいのではないかと。
今回は先日再読した「17歳のための世界と日本の見方」の
姉妹編に該当する「18歳から考える国家と私の行方」を読んだ。
その中から「インターネットの世界化についての8つの懸念」、
と題した一節をメモしておこうと思う。(西巻P201~205)
- IPアドレス。インターネット上での行動のすべてが格納される。そのためネットユーザーはつねに自意識をえぐられるとともに、自意識そのものが自己に所属しているというより、ネットに帰属させられているように感じる。
- ウィルス感染。どうしたら「電子的な手洗い」や「デジタルなうがい」ができるのか、いまひとつ分からない。
- 膨大すぎる情報のやりとり。どんな快楽も高速過剰な快楽になりすぎると、我々の知覚の閾値がおかしくなるはず。
- ビックデータ。容易に分類できない「非構造化データ」を放置したまま、ビックデータを解析すると、社会や市場の動向がデータ・アナリストによって偏ったままの結論に誘導されかねない。
- フィルターバブル。フィルタリングにパーソナライゼーションが重なることで、「みんなが合理的な選択をしているのだ」という社会観念が蔓延しかねない。
- インターネットが思索力や直感力に寄与できているメディアかどうかが疑問。とくに読解力が落ちている懸念。
- ネットの自己はどうなるのか? 自己には「知る私」と「知られる私」があり、このふたつがゆるい関係で抱き合って「私」をつくっている。インターネットは、このふたつの自己をくっつけすぎた。
- インターネットはジャスミン革命を今後も連打していけるようなメディアになりうるのか?
物心ついた時はすでにネット社会だと気が付きにくい。
黎明期からインターネットに触れているからこその感覚だと思う。
膨大すぎる情報(3.)については、私も身をもって体験した。
投資を始めてすぐの2000年頃は、電話回線でネット接続する時代。
当時は上場企業のウェブサイトに掲載される情報量も少なく、
ネットに接続する時間に比例して電話代がかかってしまったから、
まだ会社四季報のような紙の情報誌が重要だった。
そこから数年でインターネットに常時接続が可能になり、
情報の大洪水に飲まれないための方法を模索する時代に変わる。
- 羽生善治「決断力」に学ぶ、情報との向き合い方。(22/05/23)
膨大な情報の取捨選択する技術が、フィルターバブル(5.)。
限りない自由をもたらすように見えたネット社会は、
自分好みの無限ループに陥りかねない危険性をはらむように。
こうなると思索力や直感力に寄与するメディアなのか?(6.)
- 文字・印刷術により低下した記憶力。そしてGoogle…(19/11/30)
私が認識できていたインターネットの課題は、8つのうちの3つだけ。
残りの5つについて、頭の片隅に置いておきたい。
コメント