分かったふりをしている人よりも、自らの無知を自覚し、
知を愛し求め続ける者こそが、本当に知恵のある人間。
ソクラテスの「無知の知」を簡潔に言うとこんなところか。
でもユリウス・カエサルも指摘するとおり、
「人間ならば誰にでも現実のすべてがみえるわけではない。多くの人は見たいと欲する現実しか見ていない。」
のが人間というもの。
とくに専門的な知識や経験を得ると、この傾向が強くなる。
根拠のない思い込みによって、見たくない現実に目をつぶる。
投資家であれば損切り局面での体験を思い出すだろうし、
3.11以前に「絶対安全」と主張した原発の専門家もこの例だ。
専門的な知識・経験を持つと「無知の知」を失ってしまうのか?
今日、私たちが社会の中で一定の役割を果たしたければ、
何か一つの領域で専門家として成熟することを求められている。
でも何者かになろうと努力した結果、「無知の知」を見失い、
専門家という肩書きの下、世に害悪をもたらしてしまうとしたら…
専門的な知識・経験の罠に陥らないためにはどうすれば?
稀代の勝負師の言葉に救いを求めるならば、
- どんなときも考え続けること
- 多分野への好奇心を失わないこと
- 真実から目をそらさない心の強さを成長させること
といった心がけが大切なんだろうね。
「日頃から新しいことに挑戦していれば、認識や感情面の筋肉が鍛えられ、あらゆる点で能力を発揮しやすくなる。…自分の仕事に打ち込むあまり、好奇心にあふれた人間であることをやめてはいけない。私たちの最大の強みは、パターン、方法、情報を吸収して合成する能力である。その能力をわざと抑えてまで焦点を絞りすぎることは、ばかげているだけではない。得られるものもほとんどないのである。」(カスパロフ)
「経験をつんで選択肢が増えている分だけ、怖いとか、不安だとか、そういう気持ちも増してきている。考える材料が増えれば増えるほど、マイナス面も大きく膨らんで自分の思考を縛ることになる。そういうマイナス面に打ち勝てる理性、自分自身をコントロールする力を同時に成長させていかないと、経験を活かし切るのは難しくなってしまう。」(羽生善治)
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参考文献
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