何気なく昔を思い出す。
その思い出し方によって幸不幸の差が出ると指摘した人物がいた。
19世紀の哲学者、キルケゴール(1813~55)だ。
ごく簡単に図解すると、
「想起」は現在から過去へ意識が向かう思い出し方。
たとえば「あの頃は幸せだった」「昔は良かった」といった姿勢は、
後ろ向きな酔っぱらいのたわごとであることが多い。
一方の「反復」は過去から現在へと意識が向かっている。
かつてあったものを取り戻し、主体的に生き直す姿勢であり、
こうした思い出し方が人を幸せにする、とキルケゴールは説く。
私たちは過去が現在につながってると幻想を抱いたとき、
そのまなざしの先には未来があり、そこにはたしかに幸せがある。
この感覚、2つの偶然が出会うセレンディピティが生じた時に多いかな。
本質的にはバラバラの過去・現在・未来が何かの拍子に手を結ぶ。
そんな瞬間にたくさん出会えたら、幸福な人生だったと言えるのだろう。
コメント
想起:過去は良かった→今は良くない→もう嫌だ、もうだめだ
反復:過去は良かった→今は良くない→でも、またかつてのように再起できる!
って事ですか、なるほど。
過去の積み重ねで現在、そして現在を重ねていった先が未来。
時間を積み重ねていく中で、良い時も悪い時もあるけど、それを積み重ねの一段階だと実感出来る人が幸せを感じやすいってことなんでしょうね。
少し話がそれちゃいますが、運も実力のうちと言われたりもしますが、完全に偶然さに依存する運もあれば、日々の行動の積み重ねで無意識に伸ばしていたアンテナの先に、ほんの少しの偶然でご縁がアンテナにひっかかる運もあります。
後者は広義では「運があった」となるけど、積み重ねの必然の結果みたいなもので、これが「運も実力のうち」の真意なのかなと思ってます。
で、やっと本題に戻りますが、この日ごろからきっちり日々の積み重ねで無意識にアンテナを広げていた人が、アンテナに偶然のご縁を得る時というのは、アンテナの大きさにふさわしいご縁を得る時のはずだから、まろさんのおっしゃる「セレンディピティ」が生じることも多いんじゃないかと。
つまり、普段から日々の積み重ね(が今、そして未来につながる)を実感していて、かつ実践している人が「セレンディピティ」の機会に恵まれやすく、結果過去から現在・未来への繋がりを実感する事が多くなり「反復」の思考になっていくのではないかとこの記事を読みながら考えました。
私の「簡潔に書きたい病」ゆえの分かりにくい記事に、わかりやすい解説をつけていただいてありがとうございます。
でもなんだか負けた気がしたので(笑)、今日も時間論の記事を書いちゃいました。