味の素をめぐるESG投資と魯山人の言葉

自己流ESG投資で味の素を選んだが…

私が自身の株式投資にESGを組み込んでみようと思ったのは、
2009年末にブルームバーグのセミナーに参加したのがきっかけ。

BloombergがCSRレポート等を元にデータベースを作っていると聞き、
私も2010年からは投資の意思決定にCSRレポートを組み込んで、
以下のようなレポート評価表を作ったりしていた。

当時のお気に入りは味の素。
レポートを読んだのをきっかけに投資した。

こんなことをする個人投資家はめずらしかったので、取材を受けるようになり、
味の素のレポートを手にした写真入りの記事もどこかに残っているだろう。

数年で株価は倍近くなり、投資リターンは申し分なかったのだが、
送られてくる株主優待の商品がきっかけに徐々に不満が増して売却。

  • 持続可能なカツオ漁と訴えても、できあがる商品はしょせん「ほんだし」ではないか。鰹節ではないのだ。
  • 「ほんだし」で食育活動だなんて、日本の食文化を破壊する行為ではないか?
  • 化学調味料をうまみ調味料として浸透させたマーケティング巧者に目をくらまされていたのではないか?(カルピスも味の素傘下の時に「初恋の味」とイメージ変化)

企業のESGへの取組みを客観的に比較しようとデータばかり気にして、
自分が大切にしたいものに反する投資していたという失敗例。

ESG評価よりも先に自らの美意識や美学が来なければ意味不明なのだ。

昨今、国内の運用会社がESG投資に積極的だが、
この企業はESGスコアは良いが自社の運用哲学に反するので除外する、
といった例は聞こえてこないが、それでいいのだろうか?

かつて称賛した味の素は、今は取材での問題提起の材料となっている。

良い料理には味の素は不可(魯山人)

味の素は1909年から販売がはじまり、家庭に普及しはじめた頃が、
ちょうど北大路魯山人(1883~1959年)の生きた時代にあたる。
魯山人は味の素に対してどのようなコメントを残していたのだろうか。

「味の素」は近来非常に宣伝されておりますが、私は「味の素」の味は気に入らない。料理人の傍に置けば、不精から、どうしても過度に使うというようになってしまいますから、その味に災いされます。私どもは「味の素」をぜんぜん料理場に置かぬことにしています。「味の素」も使い方でお惣菜的料理に適する場合もあるでしょうが、そういうことは上等の料理の場合ではありません。今のところ、とにかく高級を意味する料理のためには、なるたけ「味の素」は使わないのがよいと思います。なんとしても上等の料理、最高の料理には、私の経験上「味の素」は味が低く、かつ、味が一定していけないと思います。こぶなりかつおぶしを自分の加減で調味するのがよいと思います。

上等な料理に使うのは問題外だが、お惣菜的料理ならば適することも、
と魯山人にしてはめずらしく、牙を抜かれたような表現になっている。
魯山人がこの調子なら私がこだわりすぎなのだろうか?

ただ「味が一定していけない」と指摘もしているように、
変化のない味に慣れてしまうと、味覚が退化する恐れがあるのでは?

私は「人には1日3回幸せになれるチャンスがある!」を座右の銘に、
美味しいものを食べることに喜びを感じて生きている。

それは味の素のようなものに頼らず、日々のご飯を作ってくれた母のおかげ。
そう信じているから、私も鰹節を削って出汁を引くのだ。

※結婚して実家を離れる時に母から譲り受けた鰹節削り器で

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