私たちは「数」で「質」を評価する方法しか持たない

今年注目のイベントといえば、やはりアメリカ大統領選挙。
共和党の候補はドナルド・トランプ氏になってしまうのか?
正気なのか、はたまた「大衆」に媚を売っているだけなのか…。

大衆とは良い意味でも悪い意味でも、自分自身に特殊な価値を認めようとはせず、自分はすべての人と同じであると感じ、そのことに苦痛を覚えるどころか、他の人々と同一であると感ずることに喜びを見出しているすべての人のことである。
---オルテガ・イ・ガセット「大衆の反逆」 P17

多数決の原理を持った民主主義は、
独裁者の圧政から人々を解放した点では優れた制度だった。
でも数のルールにしたがい、周囲にあわせる必要性から、
なんの美学や道徳律も持たない「大衆」を生み出したのでは?

そして困ったことに民主主義における大衆は、
「数」を「質」に変える決定権を握っている。

さらに知を解放する装置として期待されたネットの世界は、
Facebook等のSNSの登場あたりから偏重をきたし、
大衆の視野を狭めるやっかいな存在になってしまった。

もはやマーガレット・サッチャーのような
信念を持った政治家は現れないのかもしれない。

サッチャー名言集
私は意見の一致を求める政治家ではない。信念の政治家だ。
私はコンセンサスといものはさほど重要なものであると思いません。あれは時間の浪費の原因のようなものですから。
意見の一致には危険がひそむ。何についても特定の意見をもたない人々を満足させようと試みることになりかねない。

思えば私たちの評価方法はいつも「質」ではなく「数」だ。
学術論文の価値はどれだけ他の学者に引用されたかで決まるし、
Googleの検索結果は被リンク数でランクが上下する同じ仕組み。
ケインズの指摘したとおり株式投資も「美人投票」のようなもの。

その一例を詳しく紹介すると、
生態系の保護を訴えるキーワード「生物多様性」。
ここでも「数」と「質」の混同が起きている。

ユクスキュルが「環世界"Umwelt"」という概念で指摘したように、
私たちが客観的に分析したと信じている世界像は、
世界全体から主観的に一部分を型抜きしたものにすぎない。

だから生態系の保護に価値がある、というその「価値」とは、
意識せずとも「人間にとって価値があるもの」になっている。
さらに生物学的には、

  • すべての生物がどこかで繋がり、地球の生態系を維持
  • ごく少数の生物が地球の生態系を維持し、後の種はオマケ

のどちらが正しいのかはっきりしないが、
「質」や「かけがえなのなさ」を判断できない私たちは、
前者を前提に「数」の維持を訴えることしかできない。

これまでと同様「質」ではなく「数」が世界を動かすだろう。
でも個々人の人生においては大衆の動向に迎合せず、
数をこなせば質につながるものと、そうでないものを見極めたい。
そのために自らの美学や哲学を磨き続けたいものだ。