仏教伝来。どう受け入れたか? 今も変わらぬ日本的方法。

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仏教が伝来した当時の日本人の反応が興味深い。
海外からの新しい潮流に対して、どんな行動をとりがちなのか、
今でも変わらない日本の源流が、ここにあるように思える。

仏教伝来。天皇が仏の姿に戸惑う。

日本書紀に残された仏教伝来の記述は以下のようなもの。

  • 522年、欽明天皇の時代に百済王から仏像が経典が送られてきた。
  • 天皇は仏像の姿に困惑。「西蕃の献れる仏の相貌端厳し。全ら未だ曽て看ず。礼ふべきや不や。(西から献上された仏の姿は美しく厳かなもので、今まで見たことがない。祀るべきかいなか)」と家臣たちに問いかける。
  • 蘇我氏は、西の諸国が敬っているから日本も取り入れるべきと主張。
  • 物部氏、中臣氏は、これまで八百万の神々を春夏秋冬に祀ってきたことに反すると主張。

この欽明天皇の反応に、日本固有の神に対する感覚が現れている

日本固有の信仰のかたち

目に見えず、形もなく、各々がその訪れを感じ取るのが日本の神
神の面影を感じられる場所(山や岩など)を「依代」と呼んでいた。
ちなみに「依代」を分解すると、

  • 依…そこへ依って来る
  • 代…神の代わり

そして神社を大雑把に分解してみると。
依代が決まると「御幣」を飾り、結界を示す四囲四方の目印の木を立てる。
結界の境目に立てる木だから「境木」、現在は「榊」と書く。
榊が結ばれ「注連縄」が張られると、この結界全体も「代」となる。
ここに屋根をかけると「屋代」になり、これが「社」になり神社になる。

このように神社では神の姿を目で見て感じることはできない。
一方の仏教では美しく整った姿の仏の像が、
崇高な精神性を備えた存在として、人々の前に置かれる。

この大きな違いに欽明天皇が戸惑っているのだ。

仏教を受け入れるも、その中身は…

そしてその後の仏教の受け入れ方が実に日本らしくて興味深い。

崇仏派(蘇我氏)と廃仏派(物部氏、中臣氏)の争いは、
戦いに発展して、蘇我氏側に厩戸皇子(聖徳太子)が登場する。
戦いに際して厩戸皇子は仏教に加護を求めて、

  • 霊木を切り取って小さな四天王の像を掘って身につける。
  • 敵に勝たせてもらえたなら寺を建てますと誓願。
  • 願い通りに勝利した後に、神に感謝するように寺を建立。

神の依代でもある霊木で仏を作ったり、お願いごとをしたりと、
仏教の思想や実践の面には踏み込まず、表面的に受け入れて、
精神性は日本固有の神々を祀るのとまったく同じ感覚
だ。

海外からの新たな潮流を表面的に受け入れたように見せかけて、
中身をよくよく見てみると、日本的なものから何も変わっていない。

今の世の中でもそんな場面に出会うことが多いように思える。

それを白黒つけずにとりあえず進むことができる長所見るか、
あいまいではっきりしない短所と見るかが意外と難しいのだが。

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