人はなぜ自由から逃走するのか?

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エーリヒ・フロム「自由からの逃走」は未読だが、
その解説書、仲正昌樹人はなぜ自由から逃走するのか」を読んだ。
近寄りがたい名著の入門編として、仲正氏の著作に助けられることがしばしば。

まずは「自由からの逃走」の時代背景を、
これまで読んだ関連図書と歴史をならべてみる。

当時の大衆がなぜ権威に身を委ねることを選び、全体主義を招いたのか。
エーリヒ・フロムが「自由」を切り口に、これを解釈しようとした一冊。

資本主義との関連付けが興味深かったので、理解できた範囲でメモ。

宗教改革によってカトリック的な共同体から「自由」になった人々は、
既存の社会秩序が崩壊しつつあるなかで、
自分の立場を脅かす他者に対して「敵意」をいだくようになる。

その「敵意」をプロテスタンティズムが、生活・職業の規律に方向転換させ、
資本主義発展の礎を築くことになったとフロムは説く。

「人間の魂の解放に関してプロテスタンティズムが開始したことを、資本主義は精神的、社会的、または政治的に継続した。経済的自由がこの発展の土台であり、中産階級がそのチャンピオンであった。伝統のうえに築かれ、伝統による制約を超えて個人が発展する余地が比較的少ない、固定した社会組織に、個人はもはや束縛されなくなった。個人は、本人の勤勉さ、知性、勇気、節約、あるいは幸福が許す限り、自らの経済的富を獲得することが許され、また期待された。成功の機会は自分のものになった。同時に失敗し、各人が他人と争う激しい経済戦において、殺されたり傷付けられたりする者になるのも、すべて自らの責任となった。」(フロム「自由からの逃走」)

しかし資本主義が発展するにつれて、市場での競争に成功を収め、
自らが救済されたと実感が得られるのは一部のエリートのみ。

かつては生まれた時から社会的世界の中で明確な固定された役割があり、
規則と義務にがんじからめにされて、自由の余地は乏しかった。
しかし生き残りを懸けた競争はなく、与えられた役割を果たしさえすれば、
安定感・安心感が得られ、社会の中で孤独を感じることもなかった。

不安に苛まれた大衆は、宗教改革以前であれば神にすがることもできたが、
今や逃げ場がなく、自由を捨ててでも目に見える権威に服従してしまう。

これが社会の宗教・共同体的な構造の解体し、
自由を手にした全ての国家・国民が潜在的に抱える問題なのだ。

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