クロイソス×ソロン問答へのアリストテレスの反論(ニコマコス倫理学)

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アリストテレスの「ニコマコス倫理学」に興味はあるが、
なんだか難しそうと迷ったものの
、結局手に取ることにした。

40歳を過ぎ、いつ老眼に襲われるか分からないので、
気になる古典は今のうちに目を通しておくべき!と気合いを入れた。

いろいろな訳本が出ていたが、岩波書店のアリストテレス全集が、
見開き2ページの左端に注釈があり、読みやすそうに感じた。
6,600円とお高いので、図書館で借りて読み進めている。

1巻10章に最近読み直したヘロドトス「歴史」のあの問答に対する、
アリストテレスの反論が記されており、興味深いのでメモメモ。

ヘロドトスが記したクロイソスとソロンの問答のポイントは、
生きているうちは幸運と言えても、幸福とは言うのは差し控えるべき。
しかしアリストテレスは疑問を呈する。

「生きているかぎりどんな人間も幸福とは呼ぶべきではなく、ソロンが言ったように最期を見届ける必要があるのだろうか。実際そのように考えるべきだとすれば、死んだときにはじめてその人は幸福であるということになるだろうか。」

「最後を見届ける必要があるのは、そのときはじめて各々は幸福であるからということではなく、それ以前から幸福であったことを祝福するためだとすれば、やはりおかしなことではないか。」

徳をそなえた優れた魂を活動させることが最高善につながり、
それが幸福なのだ、と説くアリストテレスにとっては、
生きているうちに幸福を考えられないなんておかしい話なのだ。
本人が幸福だと思っているなら、素直に認めてやりなさいよと。

「活動が人の生を決するものだとすれば、幸福な人は誰も決して悲惨な境遇には陥らないだろう。というのは、そうした人はどんな場合でも、厭うべきこと、忌まわしいことを行わないからである。実際、真に善き者、思慮のある者はあらゆる偶然のめぐりあわせに昴然と耐えて、現に置かれている状況のうちで、その都度最善の行動をとるとわれわれは見なしているからである。」

徳をもってひとたび幸福を掴んだ者は、悲惨な境遇に陥ることは少なく、

「幸福な人は移り気でなく、動揺しない者である。なぜなら、幸福な者は幸福なあり方から容易に動かされることはないだろうし、仮に動かされるとしても、それはありふれた不運によってではなく、度重なるこうした不運によってである。しかもこうした不運からは短時日で再び幸福に立ち戻ることはできず、もし立ち戻るとすれば、一定の長さのしかも十全な時間を要し、そうした時間において彼が大いなる美しい働きを成し遂げた場合である。」

度重なる不運によって幸福を失ったとしても、
時間をかけて幸福を取り戻すだけの度量をもった人間であるはず。

「以上で述べられた要件を現に備え、しかも将来も備えうる人々のことを、至福なものと呼ぶべきであろう。」

人生の幸福を結果で判断するのか(ヘロドトス)、
それとも過程におけるあり方で判断するのか(アリストテレス)。

個人的にはどちらでもよく、その時々の置かれた状況に合わせて、
様々な視点で自分の人生を見つめることができればいいのだと思う。

ちなみにクロイソスとソロンの生没年から実際に二人が交わることはなかったという。
ペルシアを退けたギリシアに「驕れる者は久しからず」と警告するため、
ヘロドトスはあのような問答を挿入したのかもしれない。

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