アリストテレスの最高善って遊戯三昧?

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いままでちゃんと読んだことがなかったので気付かなかったのだが、
アリストテレス「ニコマコス倫理学」はある意味、幸福論の古典のようだ。
ちょこっとかじってみて、もしやこれは?と思ったことをメモ。

もういちど読む 山川倫理」をパラパラのめくっていたら、

「人間にふさわしい能力は、徳をそなえた優れた魂を活動させることにある。そして、そのような生き方にこそ人間としての最高に善いあり方、すなわち最高善があり、それが幸福にほかならない。幸福の瞬間は、人としての日々の生活の中で、人間らしい心の能力を十分に発揮して生きることにある。」

なるほどと思い、高校生向けの名著抜粋本で、
アリストテレスの「ニコマコス倫理学」の原文を追ってみる。

「いま、卓越性が、もしくはある卓越性が、幸福にほかならないと主張する人々に対して我々の規定は適合している。ただ、最高善を解してそれは所有にあるとするのとその使用にあるとするのとの差異、状態と解するのとその活動と解するのとの差異は、おもうに僅少ではない。というのは、卓越性という「状態」はそれが存在していながら少しも善を結果しないことも可能であるが、活動はこれに反してそういったふうではありえないものだからである。」

解説書等では「卓越性」を「徳」と読みかえているようだ。
そして徳が「活動」していることに意義があると主張している。

結果より過程が大事とか、後から結果が付いてくる、みたいな雰囲気で、
禅語の「遊戯三昧(ゆげざんまい)」にも近い気がする。
まるで遊んでいるかのように、今の時に没頭する。
その先に禅の目指す「本来の自分との出会い」があるというような。

「ニコマコス倫理学」をきちんと読んだ方がいいかな、
でも少し読みにくい文章だなぁ、とモジモジするのだった。

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