村井康彦「武家文化と同朋衆」を読んでいて、
なんだか不思議に思った「連歌」に対する感覚の国際比較。
以下の4人がホテルに閉じこもり、連歌を試みたところ、
- オクタヴィオ・パス(メキシコ人)
- エドアルド・サングネティ(イタリア人)
- チャールズ・トムリンソン(イギリス人)
- ジャック・ルーボー(フランス人)
次のような感想を抱いたのだという。
「羞恥心。私は他の人たちの前で書き、彼らは私の前で書く。何かしら、カフェで素裸になるとか、外国人の前で排泄したり、泣いたりするような感じ。日本人は、公衆の前で裸になって入浴するのと同じ理由、同じ流儀で《連歌》を考えだしたのである。われわれにとっては、浴室もものを書く部屋も厳密にプライベートな場所であり、そこへは一人で入って、あまり自慢出来ないこと、あるいは輝かしいことをかわるがわる行う。」
この話を受けて著者は、
- 非個人的な制作行為に対する欧米人のとまどい
- 日常性の否定、虚構の中に芸術活動があり、作品の価値がある
という点に日本との違いが見られ、
「生活芸能」というジャンルは日本独自のものでは、と指摘する。
ビジネスにおいて、自分のアイデアをアピールするとか、
社内外の知を交換することで成長を促進する(オープンイノベーション)、
みたいなのは日本人や日本企業が苦手とする話だよね。
でも日本の文芸はアイデアの交換により創作が行われてきた。
そして海外では日本とまったく逆の感覚になる。
ここを分ける境界はいったい何なのだろう?
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