春はあけぼの、夏は夜、秋は夕暮れ、冬はつとめて。
言わずと知れた清少納言「枕草子」の季節感。
古今和歌集で特に美しい恋歌(484)、
夕暮れは 雲のはたてに ものぞ思ふ
天つ空なる 人をこふとて
遠い空のように届かないあの人を恋しく思いつつ、
夕暮れ時に雲の果てに想いをはせる。
というのは秋の夕暮れがよく似合いそうだ。
でも秋の情趣といえば、
- 月
- 紅葉
- 夕暮れ
の三点セットかと思いきや、
中秋の名月の和歌がそうであったように、
秋の夕暮れもまた用例が少ない。
平安時代末期に秋の夕暮れを題材にした和歌が増えた模様。
新古今和歌集の秋の巻に六首(359-364)が並んで収録され、
うち三首は「三夕(さんせき)」と呼ばれ名歌とされる。
さびしさは その色としも なかりけり
まき立つ山の 秋の夕暮心なき 身にもあはれは 知られけり
しぎたつ澤の 秋の夕ぐれ見わたせば 花も紅葉も なかりけり
浦のとまやの 秋の夕ぐれ
順に寂連法師、西行法師、藤原定家の和歌。
定家の和歌は後に武野紹鴎や千利休が佗茶に通ずると称賛。
「世上の人々そこの山かしこの森の花が、いついつさくべきかと、あけ暮外にもとめて、かの花紅葉も我心にあることを知らず。只目に見ゆる色ばかりを楽しむなり。」(南方録)
目に見える風景美を歌にしていた古今集の時代は、
秋の夕暮れに関心を寄せた歌人は少なかったようだ。
「すべて、月・花をば、さのみ、目にて見るものかは。春は家を立ち去らでも、月の夜は閨のうちながらも思へるこそ、いと頼もしう、をかしけれ。」(徒然草)
風景に心を投影し、情景を詠うようになってから、
秋の夕暮れが注目されるようになったということか?
もうひとつ中秋の名月の時と同じような見方をすると。
万葉の時代、昼と夜の世界が交わる夕暮れ時は、
異空間への扉が開くという感覚があったようで、
言霊の 八十の巷に 夕占問ふ
占正に告る 妹はあひ寄らむ
「たそがれ」は「誰そ彼」であり、
陽がかたむくともに人々の表情や輪郭がぼやけはじめ、
行き交う人々の中に神霊が混ざる時刻と考えられていた。
こんな背景から好んで詠まれることが少なかったのかも。
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