高橋義雄(1861~1937)。
明治・大正時代に三井グループで活躍した実業家。
茶人・高橋箒庵(そうあん)としても知られており、
茶道三昧の日々を送るなかで茶会の記録を綴り続けた。
時事新報で連載された茶会記は後に出版され、全23冊におよぶ。
- 東都茶会記 13冊
- 大正茶道記 8冊
- 昭和茶道記 1冊
- 茶道実演録 1冊
都立中央図書館で読むことができるので、
茶会で供される料理、茶懐石に絞って少しずつ読み進めている。
1912年(明治45年)からはじまる茶会記を2年分ほど読み進めたところ、
- 井上馨の茶懐石が絶品
- 益田孝の茶懐石の食材に特徴がある
という記述が目に付いた。
今日は井上馨主催の茶会の記録を2つメモしておこう。
世外老候興津別業の茶会(明治45年3月15日)
静岡興津にある井上馨の別荘で行われた茶会。
当時の日銀総裁の高橋是清を招いての会だったという。
その茶懐石の献立は、
- 汁 桜はい蕨、ふきのとう
- 向付 鯖なます、ぼうふう、紫蘇
- 椀 ひよどり、嫁菜、カリフラワー、桜花二輪百合
- 焼物 甘鯛粕漬
- 浸物 鯛の皮、竹の子、土筆
- 吸物 すっぽんの玉子、蘭の花
- 八寸 鶏卵黄味、味噌漬、白魚、醤酒烹、インゲン
この料理を箒庵は絶賛し、
「ただ一心不乱に天下一品の御料理を賞玩するばかりなり。」
そのゆえんとして、井上のこんなエピソードを紹介している。
「同志と共に八新と称する割烹店に会飲せし事ありしが、同店に名高き料理人ありてすこぶり斯道に精通する由を聞き、明治元年に判事として長崎におもむくの際、右の料理人を同伴し滞在中その奥義を伝授して更に自家独創の工夫を加へ、その客を招くや庖厨に入りて自ら塩梅するがゆえに、風味清新尋常調理と其選を異にするはもとより言を待たざるなり。」
井上は若い頃に京都の八新の料理人から料理を学び、
茶会を開くときは自ら厨房に入り、料理人を指揮していたという。
だしにそのこだわりが現れており、
「たとえば当日の懐石においても汁の「だし」、椀の「だし」、吸物の「だし」とそれぞれ材料を異にして普通料理店にて使用する鰹節一天張など云ふ次第に非ず。・・・その「だし」を取るや前日より材料を浸し置きて風味の漸次水に染み込むを待つ等、もとより容易の手数に非ず。」
そしてこんなそれぞれこんな食材でだしをひいていたのだとか。
- 汁のだし 昆布、鰹節、干大根、貝柱
- 椀のだし さとうきび、尾張大根、昆布、鰹節
- 吸物のだし 梅干、尾張大根、鰹節
内田山大茶の湯(大正2年11月15日)
麻布内田山の井上馨の自邸で行われた茶会。
この時の献立と箒庵の感想は以下の通り。
- 汁 三州味噌、はや、嫁菜、ふきのとう
- 向付 ホウボウへち身、山葵しる、水前寺海苔
- 椀 小鴨ひら身、竹の子、新菊、木の芽
- 焼物 甘鯛、甘酒漬
- 鉢 浸し物、春玉、鯨のし
- 八寸 松露、からすみ、ちようろげ
- 吸物 すっぽん卵、蘭の花
- 香物 胡瓜、新沢庵
- 菓子 熟柿形、柿の紅葉に載せて
「天下一品とも云ふ可き呉州赤絵揃ひの器物に、候が明治の初年京都八新の老庖丁より伝授したる料理塩梅を以てしたる今日の食膳は、これまた必ず来客の口に適したる事ならんが、とにかく大勲位侯爵の料理番は確かに前代未聞にして、此一事のみにても内田山大茶の湯の名に背かずと云ふべし。」
本当に美味しかったのか?
ここまでの褒め方をされるとお世辞なのではないか?という疑問が沸く。
この茶会記は箒庵の個人的な日記ではなく新聞連載なのだから。
国立国会図書館デジタルコレクションで、
井上の死後編さんされた伝記が読めたので調べてみると、
料理について書いた章の末尾に気になる記述が…
「要するに公の料理は、その性格と同様に、尋常の味覚をもっては味わい得ないところのものであった。」
これって微妙な表現だよね。
ちなみに大正天皇が井上の漬けた沢庵がお気に入りだった、
という記述もあるので、こりすぎて美味しくない時もあった、
というような受け止め方が正しいのだろうか?
しかしこの頃の茶人の食に対するこだわりには感銘を受ける。
自ら厨房に立つ政界の大物がいたかと思えば、
栄養学の研究にまでのめり込んだ益田孝は三井物産の初代の社長だ。
今の私たちが美味しい懐石料理をいただけるのは、
この時代に富豪たちが茶会で切磋琢磨したことも背景にあるかも。
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