消えゆく書店とべネディクト・アンダーソンの出版資本主義

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消えゆく書店

約8年前にこんなことを書いていた。

当時アメリカで生き残りが絶望視されていた街の書店。

でもアメリカの書店はわざわざ車で出かける場所で、
日本の書店のように駅前で気軽立ち寄る場ではないから、
Amazonに押されて消えていくのでは?

文庫や新書など本の大きさごと、出版社ごとといった、
管理のための本棚ではなく、お客が楽しめる本棚を心がければ、
日本の書店にはこれからも生き残りの道があるはず。

そんなことを書いたのだけど、
とくに大手の書店では管理のための本棚のまま…。

そして先頃、全国に約160店舗の書店を運営する
文教堂ホールディングスが、債務超過解消が困難となり、
こんなプレスリリースを出していた。

べネディクト・アンダーソン「想像の共同体」(1983)

とはいえ「本を読む」という行為自体が失われるように思えない。
と考えつつ、ふと思い出したのが、

国家や国民の概念が形作られるにあたり、
出版資本主義が関与していたのでは?と指摘していた。

国民は心の中に想像されたもの

べネディクト・アンダーソンはナショナリズムをめぐる議論は、
「国民」をめぐる3つのパラドックスに悩まされてきたと指摘している。

「ナショナリズムの理論家たちは、しばしば、次の3つのパラドックスに面くらい、ときにはいら立ちをおぼえてきた。その第1は、歴史家の客観的な目には国民が近代的現象とみえるのに、ナショナリストの主観的な目にはそれが古い存在とみえるということである。その第2は、社会文化的概念としてのナショナリティ〔国民的帰属〕が形式的普遍性をもつ―だれもが男性または女性として特定の性に『帰属』しているように、現代世界ではだれもが特定の国民に「帰属」することができ、『帰属』すべきであり、また『帰属』することになる―のに対し、それが、具体的にはいつも、手の施しようのない固有さをもって現れ、そのため、定義上、たとえば『ギリシア』というナショナリティは、それ独自の存在となってしまうということである。そしてその第3は、ナショナリズムのもつあの『政治的』影響力の大きさに対し、それが哲学的に貧困で支離滅裂だということである。別の言い方をすれば、ナショナリズムは、他のイズム〔主義〕とは違って、そのホッブスも、トクヴィルも、マルクスも、ウェーバーも、いかなる大思想家も生み出さなかった。この『空虚さ』の故に、ナショナリズムは、コスモポリタンでいくつもの言語をあやつる知識人には受けがよくない。」

簡潔に編集し直すと、

  1. 歴史家から見れば国民という存在は当たり前。でもナショナリストの目には国民は古い存在に見える。
  2. 国民が国家に帰属するのは当たり前で、どの国民も他の国民とは異なる文化を持つと確信している。
  3. ナショナリズムは政治的影響力が大きいにもかかわらず、これをめぐる議論は貧困で支離滅裂。

そしてこのパラドックスをそのまま解読するのは不可能なのは、
国民という概念は心の中に想像されたものだから、と考える。

「国民とはイメージとして心に描かれた想像の政治共同体である―そしてそれは、本来的に限定され、かつ主権的なもの〔最高の意思決定主体〕として想像されると。国民は〔イメージとして心の中に〕想像されたものである。」

出版資本主義が国民と文化を形づくる

そしてこの想像の共同体が生み出される背景として、
アンダーソンは出版資本主義の関与を指摘する。

「資本主義にいかなる超人的偉業が可能であるにせよ、死と言語は、資本主義の征服しえぬ2つの強力な敵だからである。特定の言語は、死滅することもあれば、一掃されることもある。しかし、人類の言語的統一はこれまでもできなかったし、これからもありえない。しかし、こうした相互了解の不可能性は、歴史的に、資本主義と印刷・出版が一言語だけを知る大量の読者公衆を創出してはじめて重要性をもつにいたったのである。」

「人間の言語的多様性の宿命性、ここに資本主義と印刷技術が収斂することにより、新しい形の想像の共同体の可能性が創出された。これが、その基本的形態において、近代国民登場の舞台を準備した。これらの共同体の潜在的広がりは本来的に限られたものであり、しかも同時に、既存の政治的境界(全体としてそれは王朝的拡張主義の高潮点を示すものであった)とは、きわめて偶然的な関係をもつにすぎなかった。」

つまりある一定の人たちの間で同じ文化が共有されるためには、
同じ言葉で書かれた本を読む人の結びつきが重要
ということ。

もっと話を簡単にすると、ある一定の読書人口がなければ、
作家という職業が成り立たず「国民文学」が生まれることはない。

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