リヒテンシュタイン。小国はなぜ生き残れたのか?

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リヒテンシュタイン探究の三回目。

リヒテンシュタインの歴史を辿ると、何度か消滅の危機に遭遇している。
幸運に恵まれたのか、侯爵家の情勢判断が良いのか、
はたまた戦略的な価値がない土地だったからなのか、
はっきりとした理由が分からないが、とりあえず事実をかき集めた。

神聖ローマ帝国の解体

神聖ローマ帝国の一領邦として誕生したリヒテンシュタインだったが、
1806年にナポレオンによって神聖ローマ帝国は解体され、
ドイツ地方の王国、公国、侯国等の中小国を束ねるライン同盟が形成。

現在のドイツの土台となるライン同盟に、リヒテンシュタインも参加していた。
しかしドイツの一部とならなかったのは、侯爵家がウィーンに居住し、
引き続きオーストリア・ハプスブルク家との関係を重視していたからだろう。
1852年にはオーストリアと関税同盟を結び、リヒテンシュタインの法定通貨は、
オーストリア通貨を用いることにしている(第一次大戦終了後の1919年まで)。

オーストリアからスイスへの乗り換え

リヒテンシュタインは1868年に軍隊を廃止していたため、
第一次大戦には参加しなかったが、オーストリアが敗戦国となり、
オーストリア通貨の崩壊で経済的に大打撃を受ける。

その混乱のさなか、教皇領として献上しようとする動きもあったようだが、
隣国スイスを頼って経済の復興を進めていく。(1923年に関税同盟締結)

また経済復興の過程でリヒテンシュタイン銀行が創立(1920)。
1930年には侯爵家が株式の大半を握り、現在のLGTグルーブへと繋がる。

おそらく、スイスとの関係と、金融業界に影響力を持つ侯爵家の存在が、
第二次大戦でナチス・ドイツからリヒテンシュタインを守ることになる。

ヒトラーはなぜリヒテンシュタインに侵攻しなかったのか?

1938年にナチス・ドイツにオーストリアが併合されると、
侯爵に就任したばかりのフランツ・ヨーゼフⅡ世(1906~89)は、
住居をウィーンからリヒテンシュタインのファドューツへ移す。
そしてドイツに加わるべきとする国内の議会の動きを封じ込め、
ヒトラーとの会談に臨み(その内容は未だに不明)、独立を維持した。

しかしヒトラーはなぜリヒテンシュタインに侵攻しなかったのか?
小さな農業国で資源の産出もなく、戦略的な価値がなかったからか、
はたまた、攻め込んだ場合のスイスの反応が読めなかったからなのか。
後者であるとするなら、裏で金融面の攻防もあったと考えられる。

国の小ささゆえに経済振興で優位に

現在、国民1人当たりのGDPで世界トップクラスのリヒテンシュタイン。

第二次大戦後に先進国が農業国から工業国に発展する過程で、
重工業は国の規模・面積から不可能だったことが優位に働く。

早くから金融に力を入れ、製造業ではいわゆるニッチ産業に進出し、
建設現場の工具(とくにドリル)で著名なヒルティや、
歯科関係者なら知らない人はいないというイボクラーがその一例。

また秘密主義の富裕層向けの銀行の存在と法人税の低さにより、
タックスヘイブン国として多くのペーパーカンパニーが設立され、
税収が増えたことも、国の豊かさにつながった。

この点については近年、世界からの批判を受けて軌道修正。
機密性低下を嫌った顧客の資金流出に伴い、LTGグループはアジアへ進出。
昨年から日本でもプライベート・バンク事業を開始している。
また税優遇の魅力低下に伴い、ブロックチェーン産業への支援や法整備を進め、
この分野のスタートアップ企業にとって魅力的な環境を整えようとしている。

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