禅は不思議だ。
腰を下ろして動かず(座禅)、布教活動に動き回ったりしない。
それにもかかわらず鎌倉・室町期以降の日本文化に多大な影響を与えている。
禅の山水思想は、枯山水や水墨画へと芸術に進化し、
やがて世阿弥の能や利休の茶道にもつながっていく。。。
禅に秘められた美意識とはいかなるものなのか?
京都旅を前に復習ついでにまとめてみた。
直指人心 見性成仏
禅の教義を特徴を表した言葉として、
- 不立文字(ふりゅうもんじ)
- 教外別伝(きょうげべつでん)
- 直指人心(じきしにんしん)
- 見性成仏(けんじょうじょうぶつ)
という4つのキーワードがある。
私なりに解説を付け加えると、
- 論理的な思考を手放した体験にこそ本質があり、文字にすることはできないから(不立文字)、
- 経典に囚われずに、師匠から弟子へ体験を通じて伝えていくべきだ(教外別伝)。
- 人が本来持っている清らかな心を見つめることで(直指人心)、
- 心の奥にある仏を見出すことができるだろう(見性成仏)。
後半の2つに着目すると、
仏はそれぞれの心の内側にあり、外側には存在しないのだから、
自らを極め、本来の自己を見つけることが禅の本質と言える。
そして自我や執着など心の中にある固定観念を捨て去ることで、
自己の本質を捉えようとする試みが、目に映る部分の形や美しさだけでなく、
奥に潜む本質にこそ無限の美がある、という美意識に結びついてゆく。
夢窓国師の山水思想
禅が芸術に踏み入れる先駆けとなったのは、おそらく夢窓疎石(1275~1351)。
天龍寺や西芳寺の庭園の作庭を手がけ、西芳寺にはこんな漢詩が残されているとか。
仁人自是愛山静(仁人は自ら是山の静なるを愛す)
智者天然楽水清(智者は天然に水の清きを楽しむ)
莫怪愚惷翫山水(怪むこと莫れ愚惷の山水を翫ぶを)
只図藉此砺精明(只だ此れを藉て精明を砺がんことを図るのみ)
この漢詩の現代語にすると、
仁徳を体得した人は、もとより山中の静かな場を愛し、
優れた智者は、自然の水の清らかな場を楽しむものだ。
私が山水を愛し、庭造りに没頭するのは、怪しまれるようなことではない。
この庭造りを通じて我が心を磨こうとしているのである。
夢窓疎石は「夢中問答集」の中でも次のような言葉を残しており、
「山水には得失なし。得失は人の心にあり。」(問答集57)
自然の中に人間のありようを見出そうと、庭造りに没頭した姿が目に浮かぶ。
こうして禅と庭園が出会い、禅芸術の代表作、枯山水へとつながってゆく。
禅芸術の七要素(久松真一)
禅の芸術的な美意識は下記7要素が渾然一体となったもの。
そんな指摘をした人がいたらしい(久松真一)。
※出典…枡野俊明「禅と禅芸術としての庭」P144-148
- 不均斉…完全にはない無限の可能性がある
- 簡素…高度に素朴で単純であることの美しさ
- 枯高…枯れ長けた強さ
- 自然…わざとらしさのない本来の美しさ
- 幽玄…見えない部分に秘められた無限の余韻
- 脱俗…物事にこだわらない美
- 静寂…限りない静けさと内に向かう心
こうした性格を含んだ美意識は「枕草子」にも見られるという指摘もある。
「不足によってこそ、完全や満足という物ではあらわせないことが出現するとみなす。不足をいかに美しくするかということによって、人々の中に満足の美というものを感じさせるのです。「枕草子」はそれを「小さきもの」と言いました。イサムノグチは「不完全こそが美だ」と言いました。」-松岡正剛「神仏たちの秘密」P85
ただ枯山水庭園や水墨画といった目に見える形で現れるのは、
禅の精神性との融合が図られてからだ。
コメント