修学院離宮と桂離宮。造営者の無念と徳川幕府の呪い。

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久しぶりの京都旅に備えて訪問場所を予習中。
今回は桂離宮と修学院離宮の拝観予約が取れたので調べていたら、
なかなかいわくつきの名所であることを初めて知った。

まずは造営に携わった人物を簡単にまとめると、

  • 桂離宮八条宮智仁親王が造営、智忠親王が改修・増築
  • 修学院離宮後水尾天皇が造営

また造営者は親戚関係にあたり、その家系図も示すと、

実は八条宮智仁親王、後水尾天皇ともに徳川幕府に虐げられた人物

八条宮智仁親王

智仁親王は幼少の頃から利発で、実子のなかった関白秀吉に目を付けられる。
1588年に秀吉の養子となり、将来の後継者とされたが、
翌年に秀吉の実子鶴松が生まれたため、八条宮家が創設されて独立。

後陽成天皇が退位にあたり、後継に息子ではなく智仁親王を望むが、
秀吉の元養子で豊臣家と縁があり(当時は大坂の陣の直前)、
才能ある天皇が生まれることを拒んだ家康の猛反対で話は消滅。

関白や天皇になれる可能性がありながら、時代に翻弄された智仁親王は、
桂離宮でただ月を眺めるばかりの生活を送るしかなかった。

月をこそ 親しみあかぬ 思ふこと
言はむばかりの 友と向ひて

後水尾天皇

後水尾天皇の即位後まもない1615年、幕府は禁中並公家諸法度を制定し、
公家の政治的権力を排除し、学芸の世界に活動の範囲を制限した。

また秀忠の娘を無理やり正室として押しつけられたり(1620年)、
紫衣着用の勅許が幕府によって無効とされ、
これに抗議した大徳寺の沢庵らが流罪となる事件(1629年)を経て、

葦原よ しげらばしげれ おのがまま
とても道ある 世とは思はず

という幕府への批判を込めた和歌を残して天皇の座を降りた。
この歌は承久の乱に敗れた後鳥羽上皇の歌に倣って詠まれている。

奥山の おどろの下も 踏みわけて
道ある世ぞと 人に知るせむ

鬼門の修学院離宮、裏鬼門の桂離宮。

隠岐島に流刑となった後鳥羽上皇の境遇に自らを重ね合わせた後水尾天皇。
もしかすると後水尾天皇にとっての修学院離宮は流刑地に等しかったのかもしれない。

地図上で位置関係をたしかめると修学院離宮は御所から見て鬼門の方角。
そして反対の方角にも線を延ばすと、裏鬼門には桂離宮が現れる。

古来より不吉とされてきた方角に自ら望んで別荘を建てたとは考えられず、
幕府が何らかの呪術的な意図を持ってあてがった土地なのだろうか。
どうも美しさを愛でるだけの名所ではなさそうだ。

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