西芳寺の庭園を作庭したのは夢窓国師ではない、
とする重森三玲の説があることを先日紹介した。
ではなぜ作風を異にするも関わらず夢窓国師作とされるのか?
またなぜ夢窓国師は「枯山水」の祖とされているのか?
国師の偉大さゆえに
臨済宗の禅僧、夢窓疎石(1275~1351)。
一般的には夢窓国師と呼ばれることが多いが、
「国師」とは朝廷から高僧に授けられる称号のこと。
夢窓疎石は生前に「夢窓」「正覚」「心宗」の国師号を、
死後に「普済」「玄猷」「仏統」「大円」の国師号を授けられた。
日本の歴史上、7つもの国師号を手にした僧侶はただ一人という偉人。
だから尊敬の念を込めて疎石ではなく国師と呼ばれる事が多い。
それゆえに国師が少しでも関わった寺院に枯山水庭園が残されていれば、
国師の死後に「あのお方が作った庭だぞ!」と宣伝のネタにされたのでは?
そこから500~600年も経てば本当の作庭者は分からなくなってゆく。
庭造りに没頭した国師
国師の作風は石組みによって滝を表現すること以外は定かではない。
しかしたびたび紹介した漢詩のとおり、国師が庭造りに没頭したことはたしかだ。
仁人自是愛山静(仁人は自ら是山の静なるを愛す)
智者天然楽水清(智者は天然に水の清きを楽しむ)
莫怪愚惷翫山水(怪むこと莫れ愚惷の山水を翫ぶを)
只図藉此砺精明(只だ此れを藉て精明を砺がんことを図るのみ)
この漢詩の現代語にすると、
仁徳を体得した人は、もとより山中の静かな場を愛し、
優れた智者は、自然の水の清らかな場を楽しむものだ。
私が山水を愛し、庭造りに没頭するのは、怪しまれるようなことではない。
この庭造りを通じて我が心を磨こうとしているのである。
夢中問答集57話
国師が枯山水の祖と呼ばれる由縁が、
専門的にどのように論じられているかは知らない。
しかし足利尊氏の弟である直義との問答の中で、
国師が従来の中国渡来の庭園美ではなく、
独自の庭園を目指していたことが伺えるくだりがある。
「古より今にいたるまで、山水とて山を築き石を立て、樹を植え水を流して、嗜愛する人多し。その風情は同じといへども、その意趣は各々ことなり。」
と前置きをした上で庭園に対する姿勢を次の3つに分類している。
浮き世の塵を愛する人
「わが心にはさしも面白しと思はねども、ただ家のかざりにして、よその人にいしげなる住居かなと言はれんために構ふる人もあり。あるいはよろづの事に貪著の意ある故に、世司り珍宝をあつめて嗜愛する中に、山水をもまた愛して、奇石珍木えらび求めて、あつら置ける人もあり。かやうの人は山水のやさしきことばを愛せず、只是れ俗塵を愛する人なり。」
庭園にとりつかれた風流人
「白楽天、小池をほりて、其の辺りに竹をうゑて愛せらりき。其の語に云はく、竹は是れ心虚しけれぱ我が友とす。水はよく性浄ければ、吾が師とすと云々。世間に山水を好みたまふ人、白楽天の意のごとく、是れ俗塵に混ぜざる人なるべし。天性淡泊にして俗塵の事をば愛せず、ただ詩歌を吟じ泉石にうそぶきて、心を養う人あり。烟霞の痼疾泉石の膏育と言へるは、かやうの人の語なり。これをば世間のやさしき人と申しぬべし。」
求道の心で山水を愛する人
「心河大地草木瓦石、皆是れ自己の本分なりと信ずる人。一旦山水を愛する事は世情に似たれども、やがてその世情を道心として、泉石草木の四気にかはる気色をエ夫とする。もしよくかやうならば、道人の山水に愛する模様としぬべし。然らぱ即ち山水を好むは定めて善事とも申しがたし。山水には得失なし、得失は人の心にあり。」
単に見せびらかすために奇石珍木を集めた庭ではなく、
白楽天の詩歌に引かれて中国的な風流を楽しむ庭でもなく、
心河大地、草木瓦石を自己の本分であると信じることを
山水を愛することの基本的精神としたい!と国師は謳っている。
はからずも国師の提案ではじまった天龍寺船貿易により、
唐物の美術品が大量に輸入され、人々が我先にと手に入れようとした時代。
国師はそんな喧騒を横目に日本独自の美を立ち上げようとした。
それゆえに国師は枯山水の精神的な祖として見られるのではないか。
コメント