私たち人間は約60兆個の細胞からできている。
そしてそのうち数千億個の細胞は1日の間に生まれ変わる。
細胞レベルでは絶えず更新されていく私たちのカラダ。
流れゆく細胞の中で「私」は「私」をどこで認識しているのだろう?
「我思う、ゆえに我あり」(デカルト)
考える「私」という存在は、この世でもっとも確実な存在。
このルネサンスの流れをくむ人間中心主義の考え方によって、
人の心や意識があらゆる物事の基礎と捉えられたが…。
「人が直接体験するのは錯覚であり、・・・この錯覚こそが意識の核であり、解釈され、意味のある形で経験される世界だ。」
(ノーレットランダーシュ「ユーザーイリュージョン」P353)
最近の研究では、意識や心は幻にすぎないようだ。
「私」という意識を中心に世界が回っているのではなくて、
「私」は無数の無意識を受けとるだけの脇役にすぎない。
心の天動説から地動説への衝撃!といったとこだろうか?
西洋の哲学史からすれば衝撃なのだろうが、東洋では…
「色即是空、空即是色」(般若心経)
私たちが知覚する現象はすべて「空」であり、固定的な本質はない。
だが「空」であるがゆえに縁で結ばれ、あらゆるものが生まれてくる。
「仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは万法に証せらるるなり。」(道元「正法眼蔵」現成公案)
仏道修行とは、自分を見極めることであり、自分を忘れること。
そうすれば世界の方から「私」の存在が明らかにしてくれるだろう。
つまり 「私」という存在は絶対的なものではなく(空)、
すべては関係性の中で立ち上がってくるもの(縁起)ってこと。
- 西洋…真理はロゴス(論理・理性)に宿る
- 東洋…カオス(混沌)は命が生まれる源
歴史を振り返れば、上記のような仕分けになるのかもしれない。
脳科学の研究が進んだ今では、東洋の考え方が正解?
そして仏教の「縁起」は、アインシュタインの考え方に近いかも。
この世界に誰から見ても変わらない「絶対的」なものはなく、
見る人の立場によって「相対的」に変わる…、それが相対性理論。
この世界は見る・見られるという関係の中で語られる、ってこと。
やっぱり「私」は、内側じゃなくて外側に存在するものなのかな…。
他者の瞳の奥にある自己像に「私」を見出そうとしがちだしね。
とりあえず今日のところはいったんおしまい。
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参考文献
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