経済的な合理性・効率性の追求をよしとする社会では、
日本人の感覚が滑稽なものに見えるというのが前回の話。
弱みを克服しなければ!という思考に陥りがちだけど、
そうした物の見方では世界を正しく読み解けないのでは?
というのが最近のモヤモヤでいろいろ書き留めている。
- 「強さ」よりも「弱さ」で世界を読み解きたい(15/09/30)
- 私たちは「数」で「質」を評価する方法しか持たない(16/01/05)
強弱や大小は相対的な価値観にすぎないにも関わらず、
むりやり数値化して競わせているように感じるのだ。
ふと思い出して開いた本のなかにこんな一節がある。
「弱さは強さの欠如ではない。弱さというそれ自体の特徴をもった劇的でピアニッシモな現象なのである。それは、些細でこわれやすく、はかなくて脆弱で、あとずさりするような異質を秘め、大半の論理から逸脱するような未知の振動体でしかないようなのに、ときに深すぎるほど大胆で、とびきり過敏な超越をあらわすものなのだ。部分でしかなく、引きちぎられた断片でしかないようなのに、ときに全体をおびやかし、総体に抵抗する透明な微細力をもっているのである。」
---松岡正剛「フラジャイル」P16
弱さは強さの欠如ではない。
このことを思いつく限りの表現で熱く語っている。
つまり弱さこそが想像力や創造力の源ということでは?
弱さの克服ではなく弱さから何を生み出すかが重要なのだろう。
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