世間が個人や組織に期待する「強さ」とは、
「能力や経験に基づいた将来の成長可能性」
なのだろうと思う。
そしてそれらを結集し、特に技術や経済を軸に、
目に見えないものやあいまいなものを排除しながら、
この世界を力強く前へ前へ進めることが人類の夢。
だから強弱や大小は相対的な価値観にすぎないにも関わらず、
歴史や社会は「強さ」や「大きさ」の側からのみ描かれる。
でもよくよく日本の文化歴史を辿ってみると、
「弱さ」や「小ささ」こそが根底にあるようにも思えてくる。
- えびす様のように「異形」と追放された者が後に神となる
- 小さく産まれて後に大出世する昔話の主人公(桃太郎、一寸法師)
- 小ささを愛でる「ちいさきものはみなうつくし」の感覚
- 日本文化全般に渡る「はかなさ」や「無常」への敏感さ
- 岡倉天心が指摘した茶道の「不完全の美」
こんなことに気が付くと、世界の読み解き方が分からなくなる。
「弱さ」は「強さ」よりも深みのある存在だから。
ただ株式会社の制度に危うさを感じられるようになったのは、
(※関連記事→投資家必読の一冊! 奥村宏「資本主義という病」)
組織の「強さ」や「大きさ」を追い求めすぎたからかもしれない。
経営者、従業員、取引先、株主の「間」が広がりすぎた。
個々人の生き方については割と明白かもしれない。
ラ・ロシュフコーが「箴言集」に遺したとおり、
「世間の付き合いでは、われわれは長所よりも短所によって人の気に入られることが多い。」
というのは誰もがが気づくところだろうし、
世の中に広く認められたいとむやみにつながりを求めれば、
なんの美学も道徳律もなしに生きる烏合の衆になってしまう。
「大衆とは良い意味でも悪い意味でも、自分自身に特殊な価値を認めようとはせず、自分はすべての人と同じであると感じ、そのことに苦痛を覚えるどころか、他の人々と同一であると感ずることに喜びを見出しているすべての人のことである。」オルテガ・イ・ガセット「大衆の反逆」 P17
なんだか分からない安心を求めて群れるのは時間のムダだ。
万人と適当に付き合って誠意の欠けた人生を送るよりも、
少人数でもたしかな信頼関係を築いた人生に価値があるのだから。
孤独と向き合うことは社会的な弱者のように思いがち。
でも目標を持つことや経済的な利益や価値を生むことなど
世間一般から期待されることに背を向けて、
「好き」を貫き通した先にしか、豊かな人生は存在しないのだから。
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