20世紀フランスの詩人ブルトンは「シュルレアリスム宣言」なかで、
「私の意図は、一部の人々の間にはびこっている不思議への嫌悪と、彼らが不思議の上にあびせようとしている嘲笑とを糾弾することだったのである。きっぱり言い切ろう、不思議は常に美しい、どのような不思議も美しい、それどころか不思議のほかに美しいものはない。」P26
偶然のなかにこそ美があり、美は偶然のなかにしか存在しない。
徹底的に現実を追求した先に見えたのは、偶然美ということか。
一番美しい偶然ってなんだろう?
偶然の積み重ねにすぎない人生に運命を感じたときだと思う。
「偶然な事柄であってそれが人間の生存にとって非常に大きい意味をもっている場合に運命という。」-九鬼周造「偶然と運命」
偶然の出会いをきっかけに、心の中で過去が整理・再評価され、
現在に向かって必然的に進んできたかのような錯覚を起こす。
「運命の出会い」は過去・現在・未来のすべてに光を注ぐのだ。
そしてこれは「愛」の領域と切り離せない関係にある。
私たちは自分自身さえも正しく理解できない生き物だ。
だから他者の瞳の奥にある自己像に意味を見出そうとする。
そして最も重要なのが、愛する人が投げ返してくれる自己像だ。
社会的なものが次々と分断されていくなかで、
自己確認の欲求に応じて、Facebookが人気を博したのだろう。
おかげでお手軽に共感や結びつきを得られるようになったけど、
どれだけ”Like”集めても”Love”にかなわないに決まってる。
しかし、運命の出会いの魔法はやがて解けてしまうもの。
相手の幸福の中に自分自身の幸福を見出し続ける難しさ。
「愛には、事象的側面でも社会的側面でも限界がないのだが、もう一つの側面、時間的側面には限界が存している。愛は不可避的に終わってしまうのである。」
-ニクラス・ルーマン「情熱としての愛」P101
書いてるうちに途中で脱線して混乱してきたから、そろそろまとめ。
愛に限らず運命の出会いを感じた数だけ人生は豊かなものになり、
つかの間の偶然である「愛」が存在する瞬間には永遠が存在する。
だからこそ偶然は偶然のまま放っておくのが美しいのだ。
※参考文献…プレヒト「哲学オデュッセイ」第3部
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