そういえば最後に赤坂「辻留」に訪れてから8年以上経つ。
その間に魯山人に師事した三代目の辻義一さんは引退し、
今は代替わりをされて、四代目は辻家ではない方になっているようだ。
初代・辻留次郎さんが京都で仕出し料理屋を構えた「辻留」
二代目の辻嘉一さんが、茶懐石の料理屋を東京に開店。
この嘉一さんは生前、約100冊近い著作を残し、
日本料理の思想や哲学を広めようとした料理界の偉人。
私の手元に一冊だけ、嘉一さんの発言をまとめた
「辻留・辻嘉一 語録 料理秘伝」があるので、久しぶりに手に取った。
調理法や器、盛り付けに関する話が多いが、私が関心があるのは、
できあがった料理をいただく側の作法にまつわるもの。
「作りたての料理がおいしいのは、料理の中に一種の活力のようなものが生まれるからです。その活力は盛り付けてから段々と衰えはじめ、やがてはかなく消え去っていくように感じられます。」(懐石傳書 八寸・口取)
料理が出されても話を止めずに、料理の説明を聞こうとしなかったり、
長々とスマホを構えて写真を撮ったりして、なかなか食べない輩がいる。
これは料理人を侮辱する行為だ。
とくに日本料理のお吸い物は、油分が少ないから冷めやすい。
油と合わさって味が成り立つフレンチや中華料理と違って、
美味しさのピークとなる温度が持続しないのだ。
ちなみに天ぷらの神様、早乙女哲哉さんは、同時に10名分揚げるので、
すぐに食べてくれるお客さんに一番できのよいものを提供する、と話している。
- 早乙女哲哉「天ぷらは時間、間、呼吸、と小さく刻んだ時を食べる物」(16/11/24)
「料理は、作るにも食べるにも、気合いが必要です。食べさせようとする心と食べようとする心とがしっくりいく。これが気合です。これがあってはじめておいしい食事ができるのです。」(味のいろは歌留多)
「日本料理は目で食べるといわれておりますが、ひと目見てきれいな、とほめ言葉の出るだけで満足してはなりません。ほめ言葉が出る前に、ああおいしそうだと思わず食指が動き、食べたくなる美味しさが理想なのです。」(懐石傳書 八寸・口取)
料理を作る側と食べる側の心意気が合わさってはじめて、
美味しい食事が実現する、一座建立の場なのである。
「濃厚なうまさは誰にでもわかりやすく、多くの人に喜ばれますが、淡い中にあるうまさは心して味わうのでないと、素通りしてしまい、おいしいとは感じないものです。じっくり落ち着いて味わう個々のものの持ち味にはかぎりがなく、広く深く、楽しさは無限なのです。」(料理心得帳)
中国明代の「菜根譚」がこの話を人生訓に広げているのを読み、
言葉としては分かっていてが、最近ようやく理解が追いついてきた。
単に歳を取っただけかもしれないけどね。
「日本料理の材料は季節季節にふさわしい香りや味をふんだんに持っています。しかしその味わいや香りは総じて淡いものなので、賞味するときは、器を口許に近づけていただくのが理にかなっております。日本料理の正しい食べ方は、器ごと手にとっていただく。これが基本であります。」(料理嘉言帳)
一汁三菜の原型とも言える平安末期の絵巻物を見ると、
床に食事を並べているから、器を手に取るのは昔からの習慣。
そんな風に捉えていたが、こういう意味合いがあるのか!
「食器というものは、そのままで見たときは、どこかに物足りなさを感じるくらいでないと料理が引き立ちません。」
「器は料理の着物」という言葉を遺したのは魯山人だったか。
ではどういう器がいいのか、と考えると、この言葉が深い。
日本料理に限らず、器と盛り付けの重要さが分かるようになってきた。
このシェフの料理は凄い!と定期的に足を運びはじめたら、
毎回、同じお皿に同じ盛り付けの料理が多く、感動が失われてしまった。
なんだか毎回、同じ味の料理を食べているような錯覚に陥ったのだ。
「料理は口で食べることはもちろんですが、目で食べ、鼻で食べ、耳で食べ、心で食べます。それだけに、料理は食べる日との身になって作れ、ということが、昔からよくいわれてきました。食べる人の心をつかむということです。」
嘉一さんは、食べてくれる人の嗜好を把握して作る、
家庭料理の方が簡単じゃないか、と話していたらしい。
家で作る料理でも美食を追求したいものだね。
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