フリードリッヒ・フォン・シラーがこんな言葉を遺したんだとか。
「人間は文字通り人間であるときだけ遊んでいるのであって、遊んでいるところでだけ真の人間なのだ。」
時間を忘れて何かに夢中になってしまう…
時の流れを逸脱したときにだけ、生きている実感がある。
そしてそこには必ず「遊び」がある。
今週はめずらしくバタバタで「遊び心」を忘れちゃった。
こんな人生はイヤだ!と反省の意味をこめて、
ロジェ・カイヨワの「遊びの定義」(P40)を眺めてみた。
- 自由な活動。すなわち、遊戯が強制されないこと。むしろ強制されれば、遊びはたちまち魅力的な愉快な楽しみという性質を失ってしまう。
- 隔離された活動。すなわち、あらかじめ決められた明確な空間と時間の範囲内に制限されていること。
- 未確定な活動。すなわち、ゲーム展開が決定されていたり、先に結果が分かっていたりしてはならない。創意の工夫があるのだから、ある種の自由がかならず遊戯者の側に残されていなくてはならない。
- 非生産的活動。すなわち、財産も富も、いかなる種類の新要素も作り出さないこと。遊戯者間での所有権の移動をのぞいて、勝負開始時と同じ状態に帰着する。
- 規則のある活動。すなわち、約束ごとに従う活動。この約束ごとは通常法規を停止し、一時的に新しい法を確立する。そしてこの法だけが通用する。
- 虚構の活動。すなわち、日常生活と対比した場合、二次的な現実、または明白に非現実であるという特殊な意識を伴っていること。
そういえば幸いこのブログは「1,3,4」を満たしていそう。
該当する項目が少ない活動は人生の無駄遣いかもしれない。
人生は遊びの中にあり、遊ばれてこその人生なのだから。
コメント
遅ればせながらあけましておめでとうございます。
遊びは非生産的で実用性が高いわけでもなく、一般には
無駄という部類になるんでしょうが、
「無駄こそ最高の贅沢!」
という言葉がありまして(いや、改変したかもしれませんが)
それが大好きな人間でございます。
生産性だの実用性だのの制約を受けない、思うが侭に楽しむこと
そんなの最高ではありませんか!
社会や経済、企業経営なども「遊び」の部分を残さないと、新しいものを生み出したり、危機への対応などができなくなっちゃう。
でもそんな大きな話はほっといて自らの人生を遊びたいものです。
ちょうど今年が前々から宣言していた引退の年なので、あらゆる制約を断ち切る一年にしたいなぁと。
今年もよろしくお願いします。