古代の日本で「春の花」と言えば「梅」だった。
いつごろ日本の関心が梅から桜へ移っていったのか。
和歌の世界では8世紀中頃の万葉集では桜より梅の歌が多く、
古今和歌集(905年)になると春の主役は桜に変わっている。
また今も変わらず京都御所の紫宸殿に花を咲かせる左近の桜は、
9世紀頃に元々は梅だったものを桜に植えかえたものらしい。
こんな経緯もあって、雛飾りには「桜橘」が定番になっている。
桜には豊作の祈りを込める春の花、という意味合いもあり、
中国から渡来した梅よりも、日本に自生する桜が好まれたのかも
中国離れと梅。その転換点にいた人物やはり、菅原道真だろうか。
幼い頃から漢文学に精通した、道真の幼少期の漢詩「月夜見梅花」。
雪積もる月下の夜、星のように輝く梅の花とその香りをめでていた。
月燿如晴雪
(月の輝くこと晴れたる雪の如し)梅花似照星
(梅花は照れる星に似たり )可憐金鏡転
(憐れむべし 金鏡転じ )庭上玉房馨 (庭上に玉房の馨れることを)
つまり「雪月花」の「花」は梅のことなのだ。
また道真と梅といえば、都を追われるときに詠んだ和歌も超有名。
東風吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ
そして道真が亡くなる直前に詠んだ漢詩「謫居春雪」。
盈城溢郭幾梅花
(城に満ち郭にあふれて幾ばくの梅花ぞ)猶是風光早歳華
(なほこれ風光の早歳の華のごとし)雁足粘将疑繋帛
(雁の足に粘き将ては帛を繋げたるかと疑ふ)烏頭点著思帰家 (鳥の頭に点じては家に帰らんことを思ふ)
幼少期に詠んだ漢詩は「夜空の星を梅に見立て」、
死を直前にした最期の漢詩は「春の雪を梅に見立て」た。
雪の中、まだ花を咲かせぬ梅は自身の境遇を投影しており、
後半部は中国の故事にからめて、都への帰還を願ったもの。
遣唐使を廃止(894年)し、自国へ意識を向けるきっかけを作った道真。
しかし日本を立ち上げる!、という機運が高まる中で、
※関連記事…紀貫之-日本語を創った和魂漢才の文芸人(2012/01/01)
漢文学に精通し、梅を愛した道真が歴史の表舞台から姿を消す。
そしてちょうどその頃、日本の春の花が梅から桜へ変わっていく。
この記事も踏まえた100円の小冊子つくりました。
詳細はこちら→初めての電子出版「日本の月と桜」
コメント