梶井基次郎のエッセイ「桜の樹の下には」はこうはじまる。
以後の桜に関する文学に影響を与えたとされる1928年の作品。
怪しくも美しい桜の魅力を表した名言だ。
ただ著者が肺結核を患い、まもなく亡くなってしまう背景(享年31歳)や、
冒頭文だけでなく全文に目を通すと(※青空文庫で読めるよ)、
「いったいどんな樹の花でも、いわゆる真っ盛りという状態に達すると、あたりの空気のなかへ一種神秘な雰囲気を撒き散らすものだ。それは、よく廻った独楽が完全な静止に澄むように、また、音楽の上手な演奏がきまってなにかの幻覚を伴うように、灼熱した生殖の幻覚させる後光のようなものだ。それは人の心を撲たずにはおかない、不思議な、生き生きとした、美しさだ。」
冒頭にインパクトのある表現を置くことで、
その裏返しとして、桜に見た命の輝きを伝えたかったんだと思う。
瀬戸内寂聴さんが書いてたのは、おそらくそういうことだ。
「人間が死ぬと決まったときに目に映る世界は、どんなに美しく、愛おしいものでしょう。あらゆる、ものというものが、ひときわ光彩を放って映ることでしょう。」
まぁ、そこまで感性豊かに桜の開花を迎えることはできないけど、
花や旬の食材など、今年も会えてよかった♪、と四季の恵みを喜びたい。
コメント
梶井基次郎の「桜の樹の下には」は冒頭のインパクトもさることながら、生命の輪廻を見事に表現した名作ですよね。
桜も馬も犬猫もウスバカゲロウも、そして僕ら人間もあらゆる生は多くの死によって支えられている。
桜があんなにも見事に咲き誇るのは、動物や虫、植物の死骸が分解され土壌が潤うから。
ついつい死を醜いものと考えてしまいがちだけれども、
生の”美しさ”の裏にはそれを支える死の”醜さ”がある。
そうして、「桜の樹の下には」のような名作の裏には書き捨てられた無数の未完小説が、称賛されるまでには多くの苦労があったのだろうなと思います。やはり名作です。
大げさに言えば「桜の樹の下には」は日本の心の集大成のような…、下記のような話がなんとなく頭に浮かびました。
「死を憎まば、生を愛すべし。存命の喜び、日々に楽しまざらんや。」(兼好法師・徒然草93段)
「花に染む 心のいかで のこりけむ 捨て果ててきと 思ふ我が身に」(西行)
「花と、面白きと、めづらしきと、これ三つは同じ心なり。いづれの花か散らで残るべき。散るゆえによりて、咲く頃あればめづらしきなり。能も、住する所なきを、まづ花と知るべし。」(世阿弥・風姿花伝)
桜の語源(松岡正剛「花鳥風月の科学」P223)
・「さくら」は「咲く」から出た言葉。
・「咲く」はサキという言葉が語源。
・エネルギーがいっぱいになり、これ以上は先に進めない状態がサキ。
・エネルギーが充満し、それが破れて先に出る。それが「咲く」ということ。