「徒然草」の桜と言えば、真っ先に思い当たるのはこれだろう。
「花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは。・・・咲きぬべきほどの梢、散りしをれたる庭などこそ見どころ多けれ。・・・すべて月・花をば、さのみ目にて見るものかは。」(137段)
満開の桜、満ちた月だけを見て楽しむものだろうか?
日本文化の「不足の美」や「未完の美」を語るときに引用されることが多い。
とはいえ、兼好が花を咲かせる直前や散って地面に広がった花びらがいい!
と本気で思っているのかというと…、他の段を見てみよう。
「家にありたき木は松・桜。・・・花は一重なる、よし。・・・吉野の花、左近の桜、皆、一重にてこそあれ。八重桜は異様のものなり。いとこちたく、ねぢけたり。植ゑずともありなん。」(139段)
家に植えたいのは、松と桜。
桜は八重桜はいやだ、と桜の品種へのこだわりまである。
さらに、京都の桜、満開予報みたいな一段も。
「花の盛りは、冬至より百五十日とも、時正の後、七日とも言へど、立春より七十五日、大様違はず。」(161段)
桜の満開は冬至から150日後、春分の9日後、立春から75日後。
桜の開花を待ちわびる兼好の姿が目に浮かぶよう。
そして桜の開花の喜びを詠った和歌(兼好法師集より)まで残しているよ。
見ぬ人に 咲きぬと告げむ 程だにも 立ち去りがたき 花のかげかな
桜が咲いてるよ!と人に知らせに行きたいけど、立ち去り難い美しさ…。
兼好の本音は、桜のつぼみ、満開、散り際、すべて見たい!ってとこでは?
私はいつか桜の開花を追って、日本縦断の旅をしてみたいな。
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