昨年来、新NISAの話題があふれており、
将来の資産を殖やすことばかりに焦点がいきがちだ。
だが、お金を「稼ぐ・貯める・殖やす」方法は限られており、
本当に難しいのは、多数の選択肢があるお金の「使い方」。
人生がいつ終わりを迎えるかは分からない。
願わくば、終末期にあわてて多額の寄付をすることなく、
元気なうちから人生を充実させるお金の使い方をしたいもの。
そんなことを考え始めると、振り返りたくなるのが、
兼好法師「徒然草」の60段と217段。
平清盛が日宋貿易に力を入れた頃から、貨幣(銅銭)が日本に流入。
兼好の生きた14世紀前半は貨幣経済が本格的にはじまった頃にあたる。
こんな億万長者になりたくない(217段)
217段で紹介される当時の億万長者の教えは(5か条のうちのひとつ)、
「神のごとく畏れ尊みて、従へ用いることなかれ。」
お金を神様のように大切に敬い、無駄遣いをしてはいけないというもの。
そしてお金がたまった暁には、
「宴飲・声色を事とせず、居所を飾らず、所願を成ぜざれども、心とこしなへに安く楽し。」
欲を捨てれば、願いは叶わずとも、心安らかで楽しいものと説く。
そんな話を聞いた兼好はツッコミを入れる。
「そもそも人は、所願を成ぜんがために、財を求む。・・・所願あれどもかなへず、銭あれども用いざらんは、全く貧者とおなじ。何をか楽しびとせん。・・・ここに至りては、貧富分く所なし。」
そもそも人は願いごとを叶えるためにお金を欲しがるはず。
欲を捨ててお金を使わないとなると、貧乏人と変わらない。
一体何が楽しいのだ?
兼好が理想とした金銭感覚(60段)
では禁欲による蓄財に疑問を投げかけた兼好法師は、
どのような金銭感覚を理想としていたのだろうか?
それが徒然草60段に描かれた「盛親僧都」という人物。
芋が大好物の高僧で、お金があれば芋に使ってしまう。
彼の貧しい暮らしを見かねて、師匠が多額の遺産を遺してくれても、
大好きな芋を買うために、あっという間に使い果たしてしまう。
そんな彼の行動を人々は、
「まことに有り難き道心者なり。」
と絶賛する。
「世を軽く思ひたる曲者にて、万自由にして、大方、人に従ふということなし。」
世間に合わせようとしない勝手気ままに生きる変人で、
昼夜を問わず食べたい時に食べ、寝たい時に寝るといった調子。
「尋常ならぬさまなれども、人に厭はれず、万許されけり。徳の至れりけるにや。」
常識外れだが、人に嫌われることなく、何をやっても許された。
刹那を充実させるための人生設計を!
南北朝の動乱の時代を生きた兼好が、
「徒然草」全編を通じて伝えたかったメッセージは、
今この時を精一杯生ききることの大切さだった。
「人は、ただ、無常の、身に迫りぬる事を心にひしとかけて、束の間 も忘るまじきなり。」(49段)
「生を貪り、利を求めて、止む時なし。・・・常住ならんことを思ひ て、変化の理を知らねばなり。」(74段)
「寸陰惜しむ人なし。これ、よく知れるか、愚かなるか。・・・刹那 覚えずといへども、これを運びて止まざれば、命を終ふる期、たちま ちに至る。」(108段)
私たちは常に死と隣り合わせに生きていることを忘れてはならない。
でもお金を儲けようとか、人に好かれよう、といったことに、
時間を浪費しているうちに、尊い人生を終えてしまう人がほとんど。
そもそも長期で投資をすれば、必ず資産が殖えるという考え方は、
過去の方法論がこれからも有効であって欲しいという願望にすぎない。
未来に目標を立て、それに突き進むことが美徳とされがち。
しかし、今この時だけが存在するすべて。未来は不確実だ。
幻のような未来のために、どこまで今の欲望を犠牲にするか?
よくよく考えた上で投資に向ける資金を確保したいものだ。
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