不確実性を飼いならす? 不確実性は私たちの存在そのものでは?

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二冊の本を同時平行で読んでいて、うーん…と思ったこと。

数学者のイアン・スチュアートは、不確実性を飼い慣らそうと苦闘した歴史を、
以下の六世代に分けて分類している。

  1. 世界は神なる自然に支配されると信じる
  2. 科学で自然予測に取り組む
  3. 直感ではなく確率論と統計学で未来を予測しようとする
  4. 量子の世界は真に不確実性からできていることを発見した量子力学
  5. カオス理論で不確実性と決定論は相反するものではないことを示す
  6. 不確実性の応用に挑む世代

常に「たまたま」や「まぐれ」といった偶然が出入りするこの世界で、
「神のみぞ知る」と特に分析しようとしなかった時代から、
「無知」ゆえに偶然を飼いならすことができないのだと追求してきた。
そして今、不確実性の応用に挑んでいるのだが…

しかしその不確実性を自然災害に絞って考えると、
地震学者ルーシー・ジョーンズの語りに考え込まされる。

「人々が畑を作るのは、水を利用しやすい、断層に沿って形成された川や泉の近くだ。火山によって作られた傾斜地には肥沃な土壌があり、海岸線は漁業や交易に便利である。だが、そうした土地はおそろしい自然災害の危険を伴っている。危険な自然現象は地球の物理的な変化によってもたらされる、避けられない現象である。それが自然「災害」になるのは、人間の構造物内あるいはその付近で発生して、構造物が突然の変化に耐えられなかった場合だけだ。」

不確実性が現れるのは、そこに人の営みがあるから。
つまり私たちの存在そのものが不確実性の源にあるのでは? 

最後にふと思い浮かんだ言葉がある。
ヴィトゲンシュタイン「論理哲学論考」6.44

「世界がどうであるということが、神秘なのではない。世界があるということが、神秘なのだ。」


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