徒然草・最終段に込められた意味

この記事は約2分で読めます。

徒然草の最終段である243段は少し不思議。

幼少期の兼好法師が父親に「仏って何?」と問いかけ、
数回の問答の後に、父は答えられなくなり、

「問ひ詰められて、え答へず成り侍りつ(息子に問い詰められ、とうとう答えられなくなったよ)」

と笑い話として父が周囲に語っていた、というところで徒然草は終わる。
子どもの頃から利発だったことの自慢? なんだか変な終わり方だ。

何かしら意図があったはずで、なぜこの内容を締めくくりとしたのだろう?

最近になって思うのは、「なぜ?」という因果を追い求めても、
無限に続くだけで、ものごとの真理に近づくことはできない。
そんなメッセージが込められているのではと。

そういえばヴィトゲンシュタイン論理哲学論考の末尾近くにも似ている。
私が好きなのは6.41番号付けられた考察。

「世界の意味は、世界の外側にあるにちがいない。世界では、すべてが、あるようにしてあり、すべてが、起きるようにして起きる。世界の中には価値は存在しない。もしも仮に価値が存在しているのなら、その価値には価値がないだろう。」

ただこういう考えに流れていくのは、私が証券市場と戯れる中で、
論理より直感の生き方が信念となったことに引きづられているのかも。

道に迷っている時、古典は新たな考えを与えてくれる存在だが、
迷いがなくなると、自らの考えの裏付けに使ってしまうのだろうか。

コメント